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「センチネル(sentinel)」というのは「歩哨」「番人」のことです。超越的なもの、野生のもの、異界のものとの境界線を守る者です。そういう人が一定数いなければこの世界は持たない
2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その8)をご紹介する。
どおぞ。
たぶんみなさんも、おそらくごく自然に、僕と似たことをされているんじゃないかと思います。朝、自分の担当している図書室の扉を開けたとき、10何時間か誰も人が入ってないところに行くと、独特の雰囲気がありますでしょう。しんと静まっている書架に向かって、思わず手を合わせて一礼したくなるということって、ありませんか。たくさんの数の書物がどこまでも並んでいる場所にはそういう力があるんです。神社仏閣に似た雰囲気がする。図書館に一歩足を踏み入れたときに、子どもたちが思わずこう一礼したくなる、思わず手を合わせたくなる、そういう気持ちを持ってくれたら、もうそれだけで図書館が存在している意義を果たし終えたという気がするんです。
さっきも申し上げましたけれど、図書館というのは、そこに行って有用な知識を得るための施設ではないんです。結果として、もちろん豊かな情報や知識を得ることはできますけれど、豊かな情報や知識を得るためには、その前段として自分の無知を思い知って、もう少し賢くなりたい、もう少し成長したいという気持ちが発動しなければ意味がない。次の試験の範囲にこれが出るとか、レポート書かなきゃいけないからというので読むのは、本を読んだことにはならない。現世的な利益に仕えるための読書には図書館は要りませんし、司書も要らない。まあ、読まないよりはマシだけれども、それは書物を穢すことです。書物というのはもっと神聖なものです。こういうことを言う人はあまりいないかもしれないけれど、僕はそう思います。みなさん方はその聖なる書籍に仕える一種の聖職者のようなものです。でも、司書も教師も、いつのころからか労働者になって、聖職者ではなくなった。もちろん労働者でもあるんですよ。みなさんだって、雇用環境の改善とかで労働者として闘わなきゃいけないのはあたりまえなんですけども。でもそれと同時に聖職者・労働者として二重化してるんですけれども。
教育や医療の世界に来る人たちって、やっぱりある種の傾向があるんです。来るべくして来るんです。そういう人が来てゲートを守っているわけです。
だから、橋下徹みたいな人にはそれがわかるんです。そこには異界への扉が開いていることがわかる。それが彼は許せないんです。この世は力のあるもの、競争で勝った者が支配していい思いをし、弱いもの、競争の敗者は身を縮めて生きろというのが彼らの思想です。ですから、この世の権威や価値と無縁のものがこの世に入り込むことが許せない。だから扉は全部閉じる。閉じて、溶接して鉄の扉をつけて、二度と「超越的なもの」がこの世に入り込んできて、子どもたちが知的成熟を遂げることをしないようにした。ある意味すばらしく勘のいい人だと思います。本当にピンポイントで人間の感情生活を豊かにし、宗教的感受性を豊かにする機関を片っ端からつぶしていったんですから。
現世しかない。今ここしかない。ここでの勝ち負けがすべてだ。相対的な優劣、勝敗、強弱だけが問題だ。これはたしかに反知性主義なんですけれども、それ以上に「外部」に対する憎しみにドライブされている。それに対して多くの日本人が拍手喝采を送っている。それは知性的、感性的、霊性的な成熟を拒否するぞという宣言に同意しているということです。末世的な風景です。
丹後半島の中に、もう人が2人しか住んでいない超限界集落があります。かつて数十人いた集落で、今は80歳を越したおばあさんが2人住んでいるだけです。そこの古民家を買って、改築して住もうとしてる門人がいます。その夫婦がそこで一生懸命古民家の改築をしてたら、おばあさんたちがやってきて「あんたたち、ここに住むのかい」と言う。「きれいにしたら週末だけ畑仕事をしに来ます」と言ったら「それより公民館があるから、この公民館をあんたたち守ってくれ」と言われた。
もともとその集落のすぐ上にお寺があったんですけど、お寺が廃寺になったので、地蔵尊の本尊を公民館に移したんだそうです。平安時代の仏像が公民館に安置してあって、このおばあさんたちが2人とも亡くなってしまうと、この集落は廃村になって、公民館にある御本尊を守る人がいなくなる。2人とももう後がないから、あなたたち夫婦でこの公民館守ってください。好きに使っていいからと言われた。
すごく広いんですよ。下は40畳くらいの集会場で、2階には宿泊施設がある。もちろん台所もお風呂もトイレもある。そこで彼らはまずきれいに床を貼り直して、お掃除して、布団買って泊まれるようにして、公民館を使えるようにした。
その門人夫婦は一部上場企業に勤めてるんですけども、もう会社やめてこの集落に移ろうかしらって言ってるんです。だって地蔵尊があるから、御本尊守らないといけないからっていうんで。田んぼ作って、ここでお米作って、野菜作って、ヤギ飼って、羊飼って...といろいろ夢を語っているんですよね。えらいなあと思って。今はそういう人たちがあちこちにいるんです、日本中に。
この人たちは野生の自然と文明社会の境界線に立ってるんです。そこに頑張って踏みとどまってるんです。彼らも直観的にわかってるんです。ここが野生の自然と文明社会のインターフェイスだってことが。このインターフェイスには誰かキーパーがいないといけない。ひとりでもふたりでもいいからキーパーがいないといけない。ここにいて野生の侵入を押し戻す。押し戻すしつつ、野生からの恵みを受け取る。野生のもの、人間とは違う世界のものとの境界線だけが人間に恵みをもたらす。野生そのものも、文明そのものも、恵みをもたらしません。原生林の中では生きていけないし、コンクリートの都会の中には食べるものが何もできない。川があっても汚れていて水さえ飲めない。飲める水も、食べられる農産物も、それを生み出すのは野生と文明のフロントラインなんです。だから、その境界線は誰かが守らなければならない。「センチネル(sentinel)」というのは「歩哨」「番人」のことです。超越的なもの、野生のもの、異界のものとの境界線を守る者です。そういう人が一定数いなければこの世界は持たないという直感に導かれて、彼らはその集落にいるわけです。
そういう人が今日本中にいろんな形でいるんです。本に関わることだけ言うと、今、日本中で「一人書店」が増えているんです。自分の町から本屋がなくなってしまったけれど、それは耐えられない。本屋が一軒もない町なんかに住みたくない。じゃあ、自分が本屋をやろう。ただ自分にも仕事があるから、生活費は稼がなきゃいけないから、本屋だけじゃ食えないから、平日は仕事をして、土日だけ本屋をやる。本屋って別に事業免許いるわけじゃなくって簡単にできちゃうらしいんですよね。取り次ぎを通すためには、とんでもないお金が要るけれど、取り次ぎを通さないで出版社から直で物を買うっていう本屋さんだったらすぐに開業できる。そういう「一人書店」が今日本中にできている。誰も「作りましょう」というキャンペーンしているわけではないのに、どんどんできてて。始めるのは女の人が多いですよね。だいたい書店とカフェと一緒にやってるんです。
この間、地方からの文化発信というシンポジウムみたいなのがあって、僕もオンラインで参加して、「一人書店っていうのがあって、なかなか頑張ってるみたいです」という話をしたら、オンラインで繋がっている女の人が「うちもそうです」って。高知の山の上なんです。車じゃ行けない。途中で車を捨てて、段々畑のあいだの道を歩いていって、ようやく山の上に家があってそこが本屋なんです。でも、そこの本のセレクションが「高知で一番とんがってる」っていうんで、来客が絶えない。本当なんです。しゃべってるうちに、画面の後ろから男の子が「こんにちは」って入ってきて、「ここですよね」と言ってるんです。だから、僕が「君、山道登ってきたの?」って聞いたら「そうです」って。そういう人が1日に何人か来るそうです。
一方で書物を単なる商品だと思ってビジネスとして書店をやっていく人たちがいますが、そのビジネスモデルはもう破綻しつつある。書物を商品だとみなすと、もうそれを売ってお金を儲ける仕事はもう先がない。でも、お金になろうがなるまいが、本を守るという人たちは必ずいる。