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内田樹さんの「学校図書館は何のためにあるのか?」(その10) ☆ あさもりのりひこ No.1421

「無知」っていうのは、頭の中にジャンクな知識がいっぱい詰まっていて、もう新しいものが入らないという状態のことを言うんです。

 

 

2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その10)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 

 司書もどっちかっていうと、ウィッチ系というか、魔法使い系の人たちだと思うんですよ。それを表に出して、「学校教育の中にゲートキーパー、ウィッチの居場所を確保しろ」と要求するのは、ちょっと難しそうですけれど、要はみなさんのマインドセットです。この世界には学校のルールとか、学校が設定している目標とか、学校の価値観とかマナーとかあるようだけれど、私たちは魔女だから、それとは違う価値観で働いている。「申し訳ないけれども、そことは違うの。そこはだって世俗の話でしょ。自分たちは、知のアーカイブの守り手なんだから。そんな短期的な、単年度でどういう業績が上がったとか、エビデンスがどうこうとか、数値がどうこうとか、評価がどうこうなんていうこととはまったく関わりのない次元の仕事をしているわけです。そこんとこよろしく」っていう、そういう態度の悪さっていうのをことあるごとに示していく、アピールしていいっていいと思うんです。「来館者数がどうだとか、閲覧回数がどうであるとか、そんなのどうだっていいの。図書館っていうのは、人が来ないのがいいのよ」とか言ってね。

 

 学校って、とにかくいろんな先生がいて、いろんな価値観を持っていて、一人一人物差しが違うのがいいんです。価値の尺度を計る物差しが違う人がいっぱいいるっていうのが、子どもの成熟にとっては一番いいことなんです。みんなが同じ価値観で律されている社会って、子どもにとっては本当に息苦しくって、そこでは生きられないし、成熟できないんです。だから学校に来なくなっちゃう。学校の中には子どもたちが「とりつく島」が必要なんです。

 保健室登校があるのは、そこは医療原理が支配する空間だからです。医療原理って、ヒポクラテス以来ずっと同じなんです。相手がどんな身分の人間であっても、相手が自由人であっても、奴隷であっても、診療内容を決して変えてはいけない。医療は商品じゃないからです。相手によって医療内容を変えてはいけない。必ず自分が提供できる最良の医療技術で診療を行うこと。医者になる人間は、それを誓うわけです。だから保健室は学校の中における異世界であり得るんです。そこでは子どもたちを一切差別しないから。病んだ人たちを誰であれ受け入れて癒やしてく。

 それと同じように、やっぱり学校の中にもう一つぐらいあったっていいじゃないですか、異世界が。図書室は異世界であっていい。そこでは少なくとも「知」っていうことに関しては、教室とは全然違う物差しでものが計られてる。そこに行くと、深く呼吸ができるとか、ほっとするという子どもたちが一人でもいたら、それで僕は十分だと思うんです。その子を救うことができたんですから。学校は嫌いだけれども、図書館には行ける。そういうような、固有の、ミステリアスな、雰囲気を作ってほしいんですよ。とにかく僕からのお願いは、とにかくみんな魔法使いのような雰囲気を漂わせて就業していただきたいんです。校長に「何やってるんだ」と言われたら、「だって、私、魔法使いだし」って(笑)。

 いや、これ本当に、真剣に言っているんですよ。書物の文化とか、あるいは真の意味での学校教育を考えたら、学校の中には絶対に「魔法使い」がいなきゃいけないんですよ。だから、子どもたちはみんな『ハリー・ポッター』をあんな喜ぶんじゃないですかね。あの物語の中では、先生たちはみんなミステリアスな秘密を抱えこんでいるでしょ。でも、今、学校の先生たちって、ミステリアスであることを禁じられていますからね。だから、みなさん方が、その学校におけるミステリアスな部分をぜひ担っていただきたいと思います。

 

司会 次は子どもとの付き合い方みたいなところです。今の子どもたちで「それ当たり前」「知らなくてもいい」みたいな子どもたちは、少なからずいるわけですが、そういう子どもたちには何を語ったら良いのかとか、聖なる存在である子どもたちと、異界である入り口である書物がたくさんある図書館との相性はどういうものなのだろうかということ。無知が可視化されて、それでも何か知りたい、成長したい、という好奇心・向学心とはどう生まれてくるのかというような質問です。

 

内田 図書館というのは「おのれの無知を可視化する装置である」ということを申し上げましたけれど、無知を可視化されたせいで足がすくむということと、そこから「とにかくこの中の万分の一でも億分の一でもいいから学びたい」という学びが起動する気持ちって、ワンセットなんです。慄然すると同時に謙虚になる。

 学びの姿勢として一番良くないことは、頭の中にガラクタな知識や情報が詰まっていて、もう新しい知識や情報が入る余地がないということです。「無知」というのはそのことなんです。「無知」っていうのは、頭の中にジャンクな知識がいっぱい詰まっていて、もう新しいものが入らないという状態のことを言うんです。これは僕が言ったわけじゃなくて、ロラン・バルトがそう言っているんです。

 ですから、それを逆に言うと、「知的」というのは、乾いたスポンジが水を吸うように次々と新しい知に対しての渇望が湧いてくる状態のことです。そういうダイナミックなプロセスのことなんですよ。静止的な状態じゃなくて、動的なプロセスのことなんです。「もっと知りたい。もっと学びたい」という意欲のことなんです。もっと自分自身の知の枠組みを刷新してゆきたい。ひとつのものの見方の中で固まっていたくない。もっと別の枠組みで世界を見ていきたい。そういう自己刷新のことを「知」と言うんです。

 容器があって、その中にいろんな知識や情報や技能を詰め込んでゆくのが「ものを学ぶ」ということだとみんな考えていると思うんですけれども、全然違いますよ。「ものを学ぶ」っていうのは、入れ物自体がどんどん形状が変化して、容積が変化して、機能が変化していくってことなんです。ここに入れ物があってその中にあれこれコンテンツを溜めてゆくということではないんですよ。入れ物自体が新しい入力があるたびに別のものに変化してゆくことを「学ぶ」っていうわけですからね。「士三日会わざれば、刮目して相待つべし」ですよ。学ぶ人間は三日で別人になっちゃうんですよ。学ぶことで三日前とは顔つきも違う、語る言葉の語彙も違う、声色も違う。全部変わってしまう。別人になることですよ、学ぶっていうのは。学校教育とは子どもたちが別人になるのを支援してゆくことなんです。

 無知に甘んじ、無知に居着いている子どもたちを自己刷新のプロセスに導くことが教師の仕事なんです。居着くってことを「無知」っていうんです。変に物知りで、ろくでもない屁理屈をこねて先生やりこめたりするみたいな(笑)、ろくでもないガキがいますけども、こういうのが無知の典型なわけです。

 この無知で凝り固まった子たちを解きほぐすのってなかなか難しいんです。だって、子どもたちが無知に居着くのは、実は自己防衛のためだからなんです。自己刷新というのは一回自分の手持ちのスキームを手離すことです。一度、自分の信念の体系を壊して、無防備な、開放状態になる。だから、その時にはすごくフラジャイルで、傷つきやすくなるんです。そうしないと、自己刷新ってできないから。連続的な自己刷新というのは非常にリスキーな企てなんです。学ぶために自己防衛を解除するわけですから、その時は非常に柔らかく、傷つきやすい状態になる。その柔らかい状態になったときに、誰かに傷つけられた経験を持ってる子は、それがトラウマになって、自分を開くことを止めてしまうんです。怖いから。

 

 自分自身の価値観を絶対に変えないぞって。「俺は俺らしく生きる!」みたいにこわばる子どもって、実は、自分の価値観を勇気をもって手離した時に傷つけられた経験っていうのがあるんです。だからそれを解除するのって、すごく難しい。