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学校の一番大切な仕事は、子どもたちを守ることです。評価したり、格付けしたり、相対的な優劣を論じたりってことは、学校の本務ではありません。子どもたちの成熟を支援することです。
2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その11)をご紹介する。
どおぞ。
大学で教えているとわかるんです。18歳くらいで大学に来た子たちって、ほぼ全員が程度の差はあれ、中等教育の間に何らかのトラウマ的な経験をしている。だから、閉じている。ぜったいに教師なんかには心を開かないぞって覚悟を決めて登場してくる子もいます。その子たちに「怖いことないよ。心を開いても誰も君を傷つけないから」っていうことを納得させるのに2年くらいかかるんです。もう大学生活の半分くらいかかる。ようやく3年生くらいになってはじめて自分の知的なスキームを壊して、自己刷新してゆくことができるようになる。傷つきやすい状態になっても、誰も自分を傷つけないっていう保証があれば、自分を開くようになる。
たぶんこの子たちはそれまでどこかで自分の気持ちを一回開いて、先生を信じたり、親を信じたり、友だちを信じたりしたせいで、傷つけられた経験があるんだと思います。それからずっと閉じている。傷つくのが怖くて閉じている。だから、教育に関わっている人たちにお願いしたいのは、子どもたちが心を開いたときに、フラジャイルな状態になったときに、絶対に傷を負わせないということです。学校って、本来は温室じゃなきゃいけないところなんです。どれだけ自分を無防備にしても誰からも傷つけられないということを先生たちが保証してあげないといけないんです。
イノセンスってすごく大事なんです。子どもたちは「聖なるもの」につながっているという話をしましたけれど、それがイノセンスということなんです。無垢で、無防備であるということなんです。イノセンスであるときに傷を負うと、子どもは自己防衛をするようになる。でも、知的であるためにはある種の無防備さが絶対必要なんです。自己防衛がしっかりしていて、どんな攻撃にも対処できる人が同時に知的であるということはありえないんです。知的であるってことは無防備であるということだからです。「無防備になれる」ってものすごく高度な能力なわけです。その能力を涵養してゆくのが学校教育の、特に初等中等教育の仕事なんだと思います。子どもたちに「イノセンスでいいんだよ」って無防備でかまわないんだよ、無防備でいても誰も君を傷つけないからって約束すること。
無防備に、イノセンスを保ったまま育った子たちって、大きくなってからすごくいい感じなんです。金が欲しいとか、権力が欲しいとか、有名になりたいとかって思わないから。大人になってもイノセンスを保てる子って、社会的承認をうるさく求めない。ふつうにしていてもみんなからやさしくしてもらえたという経験がある子は、何がなんでも有名になりたいとか、何がなんでも金が欲しいとかね、人に屈辱感を与えることができるような立場になりたいとかって、思わないんです。今の子たちのほとんどがそっちにいっちゃってるっていうのは、どこかでイノセンスを失ってしまったからなんです。子どもの顔見てそう思うでしょ、無邪気とか、無防備とかっていうのって今、ほんとにね、見なくなってしまった。
学校教育の仕事は子どもたちの中にかろうじて残っているイノセンスをどうやって守ってあげるかということなんです。無防備な人じゃないと、まったく新しいことって起こせないんです。がちがちに自己防衛していて、かつ知的にイノベーティブな人なんてこの世にいません。
だから、子どもたちを守るいろんな方法がありますけれど、その一つとして、とにかくみなさんがたが学校の中にミステリーゾーンを作って(笑)、そのミステリーゾーンではどんなに無防備になっても、ゲートキーパーの方たちがここでどうやってふるまったらいいか、そのマナー知っているから、それをきちんと聞いてる限りはぜったい傷つかないからって、そういう保証をしてあげる。ミステリーゾーンの中に奥深く入っていく「先達」として、みなさん方が子どもたちの手を引いてってあげるっていう、そういう仕事をされればいいと思うんです。そこでは格付けはしないし、評価もないし、もちろん恫喝することもないし、不要に恐怖心を与えることもない。ここにいて、「先達」についてゆく限り、絶対あなたは傷つけられることはないよ、そういう場所を学校の中に作っておくということは、すごく大事です。
だから、世俗の権力はそこをつぶしにかかってくるわけです。学校の中に世俗の価値観になじまないミステリーゾーンなんかあったら困るから。でもミステリーゾーンを守るためには闘わないといけない。この聖地を守るためにはみなさんが闘わないといけない。
学校の一番大切な仕事は、子どもたちを守ることです。評価したり、格付けしたり、相対的な優劣を論じたりってことは、学校の本務ではありません。子どもたちの成熟を支援することです。そのことを重ねて申し上げたい。
司会 本、資料についての質問があります。あらゆる資料が神聖なものであると言い切れるのか。あと、ファンタジーを読んでも賢くなったという感覚は無いんだけれども、過去の知識とつながるという意味でならノンフィクション、事実が書かれた書物のほうがつながりが深いのかなというような質問です。
また、今、学校図書館は探究学習での活用が求められて、調べるっていうことが重要になってきているんですけれども、そういう調べるということと、心を豊かにするということ、読書センターとメディアセンターとのバランスみたいなのはどうしたらいいのだろうか、デジタルの資料との兼ね合いをどうしたらいいのかという質問があります。あと本があるとほっとする人と、本があると息がつまるという子もいるんですが、その違いはどこから来るんだろうかというような質問があります。
内田 ファンタジーとかノンフィクションとかジャンル関係なく、どんな本でも読んでいいと思います。大事なことは、子どもたちが狭い小さい自分の殻から外に出るということです。子どもたちって、けっこう頑迷なんです。自分の年齢であったり、性別であったり、自分が帰属している集団の文化であったり、その「檻」の中からなかなか出ることができない。これを解除して、「檻」の外に引き出さないといけない。
一番いい方法は、今の自分とはまったく違う世界の、遠い国の、違う時代の、年齢も、性別も、宗教も、生活文化もまったく違う人の中に入り込んでいって、その人の身体を通じて世界を経験することです。自我の呪縛を解体する方法としては、一番これが効果的です。そのための手段はなんでもかまわないんです。小説でもかまわないし、ファンタジーでもいいし、もちろんノンフィクションでもいい。ノンフィクションだったら、実際にリアルな人物がそこにいて何ごとかを経験しているわけですから、そのリアルな他者のうちに想像的に入り込んで、その人の身になって世界を経験することができる。
僕自身の読書経験のお話をします。それまではマンガしか読まない子どもだったんですけども、父が教養主義の人だったので、10歳くらいの時に、『少年少女世界文学全集』ってのを買ってきて、それを読まされた。毎月一冊配本されるのだけれど、最初は本を読む習慣がないから読むのが遅いんです。あんまり面白いと思わなかったし。でも親に「読め」って言われているから仕方なく読んだ。でも、ひと月かかっても1冊読み終わらない。読み終えないうちに次の本が来て、どんどんたまってくる。でも、そのうちに本を読むのにも慣れてきて、読むのも速くなってきて、本を読むのがだんだん楽しくなってきた。
そして、ある日、決定的な転換点がありました。それはルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』という本が来たときなんです。それを読んで、生まれて初めて、1860年代のニューイングランドの、4人姉妹の女の子の中に想像的に入りこんで、女の子の目から世界を見るっていう経験をしたんです。ジョーに感情移入して、少女になって世界を見るという経験をしたときに、僕のなかの何かがはじけたわけです。それから後、『あしながおじさん』を読んで、『赤毛のアン』を読んで、『愛の妖精』を読んで、『アルプスの少女ハイジ』を読んで、『小公女』を読んで、少女の身になって世界を経験するっていうのがもう楽しくてしょうがなかった。
ですから、当然少女マンガも読めます。少女マンガって、男の場合、まったく読めないっていう人がけっこういるんです。少年マンガにはすごく詳しくって、いっぱい読んでるけれども、少女マンガは読めないって。どういうコマ割なのかわからないし、吹き出しも複雑すぎて読めないって。僕は少数派であるところの「少女マンガを読める人」なんです。あまりいないんです。鈴木晶(しょう)さんと前に「少女マンガが読めるっていうのは、子どものときに少女小説読んで、女の子になった経験がある、そのあるかないかの違いが大きいんじゃないか」っていう話をしたことがあります。彼も僕と同じで、少女の身になれる人なんです。
今年の夏『ダ・ヴィンチ』が、山岸凉子特集(2023年9月号)で、山岸凉子の怖い話について、ぜひ書いて欲しいという依頼がありました。そのあとすぐに、今度は文藝春秋から山岸凉子の文庫が出るから解説を書いてくださいっていう依頼がありました。男子で少女マンガについて解説書く人って少ないんですよ。僕はそれが書ける少数派の人なんです。
僕の寄稿したエッセイの上の欄が岩井志麻子さんで、岩井さんが何が一番怖いか書いていて、それが『天人唐草』と『汐の声』。僕も同じもの選んでて(笑)、僕はそれと『わたしの人形は良い人形』です。
少女マンガが読めるようになったのは、手柄顔して言うわけじゃないんですけれども、子どものときに少女小説を読んだからです。女の子になって世界を見るということがものすごく楽しいことだっていう刷りこみが最初にあったから。だから、女の人の書いたものを読むことができる。
僕はそのあと文学でなくて哲学を専門にするわけですけども、哲学だって実は同じなんです。やっぱり哲学者の中に想像的に入ってゆく。どうしてこの人はこんなこと必死になって説いているんだろうと考える。そのうちに「あ、なるほど、それが言いたいわけね」って何となくわかる。自分の先入観を手離して、他人の中に入んないと、哲学だってわからないです。自分から出ないで、自分を手離さないで読んでいると、哲学書ってただ難しいだけなんです。でも、哲学だって、文学を読むようにして読むしかないんです。語り口はごつごつしてますけれど、実際には哲学者だって「これだけは言わずには死ねない」っていう、やむにやまれぬものがあるから哲学書を書いてるわけで、その気持ちって、文学とそんなに変わんないんです。
だから、ジャンルでどうこうということは無いと思うんです。遠い国の、遠い時代の、今の自分と全然違う人の中に入り込むっていう経験は、とっても大事だし、とっても愉快だし、素敵なことなんだよってことを、ぜひ子どもたちには熱く語っていただきたい。襟首つかんで、「いいから、本読め!」って(笑)。
(2023年8月5日 学校図書館問題研究会 大阪私学会館)