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内田樹さんの「『街場の米中論』のまえがきとあとがき」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1424

ひとりひとりの記憶のアーカイブの中には、原理的には、生まれてから見聞きしたすべての情報が収納されているはずだからです。表層にあって「すぐに取り出せる記憶」とは別に「そんなことを記憶していることさえ忘れていた記憶」がその下には広がっています。深々と、底なしに広がっている。

 

 

2023年9月25日の内田樹さんの論考「『街場の米中論』のまえがきとあとがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『街場の米中論』(東洋経済新報社)がもうすぐ出る。その「まえがき」と「あとがき」を公開しておく。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今回は「米中論」です。

 僕の主宰する凱風館寺子屋ゼミで少し前に通年テーマ「アメリカと中国」でゼミをやりましたが、そのときの僕の発言を文字起こしして、それに大幅に加筆したものです。

 ゼミでは毎回一人のゼミ生が演題を選んで発表をします。それについて僕が30分ほどのコメントを加えて、それからディスカッションをします。この形式は20年前の大学院時代のゼミから変わりません。2011年に大学を退職してからは、ゼミの開催場所が大学の教室から道場に移りましたが、火曜五限という開始時間はそのままでした。参加するゼミ生はさすがに変わりましたが、それでも「卒業」するまで平均5年間くらいは在籍してくれます(最初からずっと履修している方もいます)。

 僕は事前に発表者からどんな内容の発表をするのか訊きません。当日発表を聴いてから、その場で思いついたことを話します。発表そのものについての評価とか査定ということはしません。ですから、僕のコメントは発表の出来不出来についてのものではなく、「話を聴いているうちにふと思いついたこと」です。「そういえば、いまの話を聴いて思い出したことがあるんだけれど」という話をします。経験的にはこれが一番ゼミの進め方としては生産的であるような気がします。

 ディスカッションに参加するゼミ生たちもみんな僕のこのやり方を踏襲し、次から次へと「いまの話を聴いてふと思い出したこと」を語ります。「いまの話」には発表の主題だけに限りません。中に出てきた固有名詞や、引用された文献の一行や、とにかく「そういえば」という一文さえ頭につけたら、何を話してもらっても構わない。

 そうすると最初の発表からは予想もしなかった「あらぬ彼方」へ話が転がってゆきます。そして、しばしば発表が始まったときには誰も予想していなかった思いがけない話題で一同盛り上がる...ということが起きます。こういうゼミの展開が僕はたいへん気に入っています。

 もちろん「そういうのが気に入っている」というだけで、これが「正しいゼミの進め方」であるなどとは申しておりません。ふつうの大学の先生が聴いたらたぶん「こんなのはゼミじゃない。ただの雑談だ」と怒り出すかも知れません。でも、僕がゼミでめざしているのは、あるテーマについて有用な知識を身につけるということよりもむしろ、ゼミ生たちに知的高揚を経験してもらうということです。

 ですから、僕はゼミ発表について「査定」とか「評価」ということをしません。別にゼミ生たちは単位が要るとか卒業要件を満たすとかいうために来ているわけではありません。みんな仕事があって忙しい身体なのにその貴重な時間を割いて凱風館まで来てくれる。それは他では経験できないことを経験するためだと思うからです。

 たしかに人の発表を聴いて、あらたな知識や情報を仕入れることもとても有意義なことですけれど、それ以上に、「そういえば」がきっかけになって、自分の記憶のアーカイブを点検するという作業が始まる方がたいせつだと思う。

 この「ちょっと待って、その話を聴いて、いまふと思い出したことがある。あれは何だったんだっけ...」というふうに自分の記憶の中に入り込むことは知性の活性化にとって、とてもとても大切なことではないかと僕は思います。

 というのは、ひとりひとりの記憶のアーカイブの中には、原理的には、生まれてから見聞きしたすべての情報が収納されているはずだからです。表層にあって「すぐに取り出せる記憶」とは別に「そんなことを記憶していることさえ忘れていた記憶」がその下には広がっています。深々と、底なしに広がっている。

 「記憶していたことさえ忘れていた記憶」の壮大な図書館的な広がりを僕たちは全員が所有しています。その容量にもそれほどの個人差はないはずです。ただ、ほとんどの人は「すぐに取り出せる記憶」だけを「自分の記憶」だと思っていて、「記憶していることさえ忘れていた記憶」がその下に深々と広がっていることをふだんは意識していません。それを「記憶」だと思ってもいないし、むろん活用することもほとんどない。僕はそれはすごくもったいないことだと思うんです。 

 推理小説で名探偵が謎を解くのはだいたい「自分がそれを記憶していることさえ忘れていたことをふと思い出す」というしかたで起きます。他の人たちが見過ごしている何でもないものに名探偵の目がとまり、「おや、これは前にどこかで見たことがあるぞ...あれはどこだったか」と記憶を探っているうちに、思いがけない「つながり」を発見する。よくありますよね。

過日たまたま『ダイ・ハード3』を見たんですけど(もう5回目くらい)、ジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)が銀行のエレベーターに乗る場面で、NY市警の刑事だと名乗る男がつけているバッジを見て、その四桁の数字を見て「おや、これは前にどこかで見たことがあるぞ」と記憶を探るという場面がありました。そのせいでマクレーン刑事は死地を脱するわけですけれど、そういうことができるから彼は「なかなか死なない(die hard)」刑事なんです。

 凡庸な警官と天才的な探偵を切り分けるのは、この「自分が記憶していることさえ忘れていたことを思い出す能力」ではないかと僕は思います。シャーロック・ホームズもエルキュール・ポワロもその手の記憶活用術の天才です。でも、この能力は物語の探偵たちの独占物ではなく、訓練によってかなりの程度まで開発することができるのではないかと僕は思っています。でも、そのためには誰かが「ちょっと待って。いまの話を聴いているうちに、ふと思い出したことがあるんだ」と言い出したときに、「おい、話題を変えるなよ」というふうに咎め立てたりしないで、とりあえず黙って耳を傾けるという習慣をお互いに認め合う必要があります。

 グレゴリー・ベイトソンの『精神の自然』の中に「知性とは何か」をめぐる小噺があります。ある科学者が彼の巨大コンピュータに「機械は人間と同じように思考できるか?」という問いを入力します。コンピュータはしばらくごとごとと音を立てて演算をしてから答えをパンチした紙片を吐き出しました(1970年代の話なので、まだ答えはディスプレイ表示じゃないんです)。そこにはこう書かれていました。

That reminds me of a story.

 訳すと、「それでこんな話を思い出した」です。

 コンピュータは「知性とは何か?」という問いには答えず、その代わりに a story を思い出しました。どうやらベイトソンはそれこそが知性の本来の働きであると考えていたようです。知性の最も創造的な働きは、問いと答えというかたちで完結するのではなく、問いというかたちで示されたある一つのアイディアをきっかけにして「一つ話を思い出す」ことのうちにある。素敵な考え方だと思いませんか。いずれにせよ、この小噺を読んだときに、多くの読者の頭が「問いに答えることよりも人間的な知性の使い方とは何か?」という問いをめぐって高速で回転し始め、いくつものstoryが読者たちの脳裏に浮かび上がったことは間違いないと思います。

 

 この本に収録されたのは、ゼミ生の発表のあとに僕が「いまの話を聴いて思い出したことがある」という前口上に続いて語った話をまとめたものです。ですから当然論文のようにまとまったものではありません。あらかじめ僕の側に「言いたいこと」があって、それを出力しているわけではありません。人の話を聴いているうちに、「思い出したこと」があるので、それを話しているんですから。

 その話を文字起こししたものを読んでいるうちにさらに「ふと、思い出したこと」があって、それを加筆して本書ができました。その年度のゼミの通年テーマは「アメリカと中国」でしたけれど、ゼミ生の発表が圧倒的にアメリカについてのものに偏っていましたので、ほとんどアメリカ論です。中国については、その世界戦略と地政学的コスモロジーについて話したことだけです。その点ではかなりバランスの悪い本ですから「米中論」を名乗るのは羊頭狗肉なのですが、中国については、情報量が圧倒的に少ないのですから、そこはひとつご容赦ください。

 

 では、最後までゆっくりお読みください。まと「あとがき」でお会いしましょう。