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「道」というのは「その全行程が通過点であるような運動」を意味します。最初の一歩から、息を引き取る寸前にかろうじて踏み出した一歩まで、そのすべてが「通過点」であって、どこにも「完成」や「最終勝利」や「終点」がない。それが「道を歩む」ということであり、それが「修行」ということです。
2023年12月28日の内田樹さんの論考「「武道的思考」について」(その3)をご紹介する。
どおぞ。
日本のJRという鉄道会社の卓越した観光ポスターのコピーに「そうだ、京都へ行こう」というものがあります。非常によくできたコピーで、最初に見てから、数年経つのにまだ使われていますから、とても集客上効果的だったのでしょう。
この宣伝コピーの「そうだ」というのが「無心」「無文脈的」ということです。あれこれと旅行の行く先を考えて、資料を取り寄せて、日程を考えて、それで「それでは、最適解として、京都に行くことにしよう」ではないんです。街を歩いていて、あるいはご飯を食べていて、仕事の手をふと止めたときに、急に「そうだ、京都へ行こう」と思い立った。これは武道における「機」に通じるものです。前段がない。いきなり生起する。
武道的な「無心」「無文脈的」な動きというのは、そのことです。不意にある動作がしたくなる。そして、それが結果的には、攻撃に対する最適の対応になっていた。結果的には、です。それをめざしたわけではないんです。「何となくそのような動作がしたくなった」だけなんです。「応じた」わけではない。だから、決して「相手に遅れる」ということがない。
「応じる」というのは「後手に回る」ということです。攻撃という「問題」を出されたので「正解」で応じようとするというスキームだと、攻撃してくる「敵」が作問者・出題者で、「我」は受験生です。出題するのも、採点するのも、「敵」です。「難問に最適解で応じる」というマインドで動くと、いきなり圧倒的に不利なスキームに巻き込まれてしまう。
ですから、「困難な状況に投じられたので、これを何とか切り抜ける」という考え方をしてはいけない。絶対にしてはいけない。それは「困難な状況」を設定した者に対して「後手に回る」ことになるからです。だから「無心」になることで「先手/後手」「出題者/受験生」「難問/正解」という枠組みそのものを無効にする。
「無心」というのは、「そうだ、これをしよう」という自発だけがあって、達成すべき目的がないということです。何のために「そんなこと」をしたくなったのか、自分でもよくわからない。
よく大記録を打ち立てたアスリートがインタビューに「これはただの通過点ですから」というコメントをすることがありますね。周りが「すごいですね、すごいですね」と囃し立てるのを気にしないで、「ただの通過点です」と気のないコメントをするのは、このアスリートが「成功体験に居着く」ことを怖れているからです。自分の達成を「成功だ」とみなし、他の競争相手に「勝った」というふうに総括すると、そこで進歩が止まってしまうリスクがあるということを彼らはその経験から知っているのです。
でも、「これはただの通過点です」というような気のないコメントをできるのは、トップアスリートに限られています。昨日今日、そのスポーツを始めた人が、試合に勝ったときに「これはただの通過点ですから」というような気のないコメントを口にしたら、コーチから「何を生意気なことをほざいているのだ。素直に喜べ、バカやろう」と叱られると思います。気の毒です。
でも、武道の場合は、昨日今日始めた人こそ、何ができるようになっても、術技のレベルが周りの人と比べて相対的に上位になったとしても(ほんとうはそんなことを気にしてはいけないんですけれど)「これはただの通過点ですから」と絶対に言わなければならない。
「道」というのは「その全行程が通過点であるような運動」を意味します。最初の一歩から、息を引き取る寸前にかろうじて踏み出した一歩まで、そのすべてが「通過点」であって、どこにも「完成」や「最終勝利」や「終点」がない。それが「道を歩む」ということであり、それが「修行」ということです。
「無心」とは「目的がないこと」だと上に書きましたけれど、そういうことです。ただ「道を歩む」ことだけが重要で、「この道の最終目標はどこか」「今、私は全行程のどの辺まで来たのか」「他の人たちと比べて、自分はどれくらい道をたくさん踏破したのか」というような問いは何の意味も持たない。
その長い修行の旅のどこかで、誰かに勝っても、誰かより強くなっても、誰かより巧みになっても、あるいは誰かに敗けても、誰かより弱くても、誰かより下手でも、そんな相対的優劣を論じることには何の意味もない。その勝敗に意味があると思うと、そこに「居着いて」しまうからです。決して居着いてはならない。それが武道の最もたいせつな教えです。決して「できた」とか「わかった」と思わないこと。おのれを「永遠の初心者」とみなして、ひたすら歩み続けること。
こういう精神的な態度が宗教と親和性が高いことはお分かり頂けると思います。
宗教もまた「超越」と向き合うことで連続的な自己刷新を果たす「行」です。
どんな宗教でも、ほんとうに信仰を持つ人は「私は神意を完全に理解した」とか「私は摂理のすべてがわかった」というようなことを口にしません(時々そういうことを口走る人がいますけれど、まず間違いなく詐欺師です)。「神意は図りがたい」のです。でも、「図りがたい」から、「神意について考えるのは無駄だから止めよう」と言う人はいません。決して埋められない欠如がそこにあるがゆえに活発に欠如を埋めようとするというのが宗教の逆説です。
これもよく引く喩えですけれど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りでは、食卓に一人分だけ空席が設けてあります。そこに皿やカトラリーを並べます。それは預言者エリアのための席です。エリアはメシアの前触れですので、そこにエリアが着席する時についに待ちに待ったメシアが到来するのです。でも、この席は過去数千年にわたってずっと空席のままでした。帰納法的に推理すれば、過去数千年にわたって空席である場合は、今年も空席である蓋然性が高いので、「もうこの席に食器を並べるのは止めない?」ということになりますけれど、ユダヤ人はそうしなかった。エリアのための席が空席であることは、ユダヤ人たちのメシア信仰を少しも傷つけるものではなかったからです。メシアはまさにその不在を通じて、「メシアを待望する」という彼らの信仰の原点を生気づけていたのです。
人知を以ては図りがたい境位をひたすら求め続ける人と、一生をかけて修行しても達成できない目標(「天下無敵」)をめざして歩み続ける人の精神は同型的です。
自分が卑小な存在であることを少しも恥じない。自分が未熟であると感じることをむしろ喜びとする。これから踏破すべき終わりなき道を望んで、「ああ、まだまだ歩き続けなければいけないのか。つらいなあ。疲れるなあ」とは考えずに、そのような「終わりなき道」を歩む者であることをおのれの光栄と感じること。それが修行者のマインドです。
こういうマインドは、資本主義の市場原理や競争原理とはたいへんに相性が悪いことはお分かりになると思います。だって、「株の時価総額を最大化する」とか「競合他社にマーケットシェアで勝つ」とか「ライバルを蹴落とす」とか、そういう相対的な優劣に居着くふるまいは全部「ダメ」なんですから。
僕は資本主義はもう命脈が尽きかけた経済システムだと思っています。そろそろ、世界中の人は「相対的な優劣」を競い合って、勝った者に資源を排他的に配分し、負けた者には何もやらないという残酷な仕組みを捨ててもよい頃だと思います。
「武道的思考」というのは、僕にとっては、資本主義システムから離脱して、それとは違うもっと深みのある、豊かな「空間」をこの社会の中に現実に創出してゆくための手引きとなるものです。そういう話なら韓国の読者にも共感してくれる人がいると思うんですけどね。どうでしょう?