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内田のような野暮な男が、日本髪のひさしをぐいっと伸ばして、フルメークをしている、誰が見ても「粋筋」の人にしか見えない美女を連れていることがあまりに「ありえない事態」なので忍耐しきれなくなったのである。
2023年12月31日の内田樹さんの論考「今年の重大ニュース」をご紹介する。
どおぞ。
2023年の大晦日を迎えたので、恒例の「今年の重大ニュース」を発表する。
(1)右膝の人工関節の手術をして、チタンの膝になった。
2019年の11月にひどい風邪を引いたあと、膝の古傷が痛み出した。しだいに痛みが耐え難いものになってきた。鎮痛剤をスプレーして、サポーターをぐるぐる巻きにして稽古は続けていたが、しだいに受忍限界を超えてきた。これでは合気道ができないどころか日常生活が営めない。盛岡に行ったときは飛行機を降りるときに足をひきずっていたら、CAの人から「車椅子をご用意しましょうか?」と訊ねられたくらいである。
三宅接骨院の三宅将喜先生のアドバイスで手術を受けることにした。最初は近場の奈良の病院で手術を受ける予定だったが、セカンドオピニオンを取りに行った昭和大学病院の整形外科で「ぜひうちで手術を受けてください」と懇望されたのでそうすることにした。東京までの往復は面倒だけれども、身内の大学病院で手術を受ける方が何かと便利かと思って、4月6日に手術を受けることにした。
3月に入るともう歩けなくなった。足の筋肉が硬直して、そのせいで坐骨神経痛がひどくなってきて、部屋の中も這うようにしか移動できなくなった。だから、手術のために東京に行くまでの旅の方が手術よりもずっと気重だった。
手術は1時間半で終わったが、全身にチューブが入った状態が3日続いた。車椅子での移動を練習して、それからリハビリが始まった。初日は平行棒みたいなのに両手でつかまって歩いたが、かろうじて十メートルほど歩くのが精いっぱいだった。これで果たして歩けるようになるのか不安だったが、3週間入院してリハビリに励んで、4月26日に退院した。退院の日はまだ杖についてよちよち歩きだった。
坐骨神経痛の痛みは筋肉の硬直の症状なので、筋肉を動かさないと治らない。なるべく歩くようにして、退院して二か月後の6月22日の朝稽古から復帰した。果たして稽古についていけるか不安だったけれど、なんとか動けた。正座はできないけれど、立ち技はほぼふつうに動けた。さすがに48年間稽古を続けてきた身体である。どこかが故障しても、他がバックアップをしてくれてなんとかなる。
手術が終わって年末で8カ月以上経った。稽古にはもうほぼ支障がない。居合の座技がきついけれど、あと半年くらいでこれもなんとかなりそうである。これでもうしばらくは現役の武道家として暮らしていける。医学の進歩に感謝あるのみである。
(2)多田先生の講習会が再開された。
コロナの間、ずっと中止だった多田先生の本部道場での講習会が再開された。10月、12月にあり、11月には自由が丘道場主催の剣杖講習会があったので、毎月多田先生のご指導を受けることができた。多田塾もそろそろ平常運転に戻ったようなので、恐る恐る多田先生に「来年の12月には凱風館での講習会を再開できますでしょうか?」とお訊ねしたら、「いいよ」と即答してくださった。2024年12月1日に先生がおいでになる。2019年以来5年ぶりの講習会である。その報告をしたら道場で歓呼の声があがった。
(3)1月17日に池上六朗先生が、3月3日に鶴澤寛也さんが亡くなった。
池上先生が入院したと聞いたので、びっくりしてお電話をした。お元気そうな声だったので、ほっとして「退院されたら必ず松本にうかがいます」と約束していたら、急な訃報が届いた。三宅安道先生といっしょに松本にうかがいますと言っているうちに三宅先生が亡くなり、池上先生が亡くなってしまった。20年にわたって私の身体をケアしてくれた名医が二人相次いで世を去った。会えるうちにあっておかないとあとで後悔するとしみじみ思った。
寛也さんが癌だということは知らなかった。1月の隣町珈琲の新年会でお会いしたとき、ふだんは着物姿で、三味線を弾いてくれるのに、洋服姿で遅くに来て、挨拶したらすぐに帰られた。あとから思えば、みんなに別れの挨拶をしに来られたのである。寛也さんのご葬儀は東村山であったのだけれど、その頃は歩くのも難儀という状態だったので、葬儀にはご無礼をしてしまった。
寛也さんは神戸女学院大学の「アートマネジメント副専攻」の「アートマネジメント実習」のために学生たちを「はなやぐらの会」のスタッフとしてお引き受け願ったのがご縁の始まりである。当時、国立劇場のディレクターをされていた矢内賢二さんにご紹介して頂いたのである。そのときの実習には「橋本治さんが詞章を書いた薩摩琵琶の会」を見て、そのあと橋本さんから「プロデューサー心得」をうかがうという贅沢な内容も含まれていた。だから、寛也さんというと矢内さんと橋本治さんのことが同時に思い出される。寛也さんとゆっくり話したのも、そういえば橋本さんのご葬儀のあとに足立真穂さん、矢内裕子さんと四人で橋本さんの思い出話をしたときと、「ほぼ日」でやった橋本さんをめぐる連続講義の第一回(コロナの直前だったので、まだ集まることができた)のあとやはり足立さんをまじえて橋本さんの思い出話をしたときのことだった。
神戸女学院大学にも来てもらったし、凱風館にも来てもらったし、鳩山由紀夫さんが首相を辞めたすぐあとに神楽坂でいっしょにご飯を食べたこともあった。思い出すと切りがない。
忘れがたいのは、神戸女学院にワークショップできてもらった時のこと。大学が出せる謝礼はほんとうに薄謝なので、並木屋でお寿司をご馳走した。二人でカウンターに並んでお寿司を食べていたら、ふだんは無口な大将がついに好奇心に負けて「内田先生、そちらの方はどういうお仕事の方なんです?」と訊いてきた。内田のような野暮な男が、日本髪のひさしをぐいっと伸ばして、フルメークをしている、誰が見ても「粋筋」の人にしか見えない美女を連れていることがあまりに「ありえない事態」なので忍耐しきれなくなったのである。
(4)今年も本をたくさん出した。
『新しい戦前』(白井聡さんとの対談、朝日新書)、『街場の成熟論』(文藝春秋)、『街場の米中論』(東洋経済新報社)、『気はやさしくて力持ち』(三砂ちづる先生との往復書簡、晶文社)、『夜明け前(が一番暗い)』(朝日新聞出版)、『日本宗教のクセ』(釈徹宗先生との対談、ミシマ社)、『一神教と帝国』(中田考、山本直輝両先生との鼎談、集英社新書)、『甦る資本論 若者よマルクスを読もう最終巻』(石川康宏先生との往復書簡、かもがわ出版社)、『「ある裁判の戦記」を読む』(山崎雅弘さんとの対談、かもがわ出版社)。
アンソロジーへの寄稿が他にあるが、単著共著で思い出せるのはこれくらいかな。
来年は『勇気論』(光文社)、『小田嶋隆のtweet本』が春ころに出るはず(もう原稿は書き終わったから)。秋までには『権藤成卿論』(月刊日本)を脱稿したい。韓国のYuYu出版社というところから「韓国オリジナル」の本も出る予定。『カミュ論』の完成は2025年になりそうである。
著作リストの中ではやはり『若者よマルクスを読もう』シリーズが全5巻、15年かけて完結したのがうれしい。お付き合いくださった石川先生と松竹伸幸さんのご厚意にただ感謝。
山崎さんの裁判が終わったのは去年だった。ほんとうにほっとした。勝訴を記念して「戦勝会」を開いている。今年も7月に集まる予定である。
山崎雅弘さんの裁判を支援する会には1000万円を超える寄付が集まった。裁判費用を支出した他、山崎さんの「ある裁判の戦記」と僕との対談本の出版のために一部支出した(寄付してくださった方たちに二部ずつお送りしたのである)。その他、スラップ訴訟の被害者たちへの支援をしている。伊藤詩織、有田芳生、紀藤正樹、水道橋博士、もうお一方(匿名希望)に寄付をした。この活動はこれからも続けてゆく。
(5)まだいろいろあるけれど、とりあえず大晦日に思い出せたのはそれくらい。また思い出したら追加することにする。