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内田樹さんの「朴先生からの質問シリーズ「宗教について」その1」 ☆ あさもりのりひこ No.1471

老子の『道徳教』に「大方無隅 大器晩成 大音希聲 大象無形」という言葉があります。「大いなる方形には隅がないように見える。大いなる器は焼き上がるまでに長い時間がかかる。大いなる音は聴き取ることができない。大いなるものには形がない」という意味です。

 

 

2024年1月15日の内田樹さんの論考「朴先生からの質問シリーズ「宗教について」その1」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

こんにちは。

 今回は「宗教」や「宗教性」などについての質問です。

 今まで内田先生と釈先生の共著で書かれた「霊性」や「宗教」や「宗教性」についてのご著作はぜんぶ読んできたような気がします。

『聖地巡礼シリーズ』をはじめ『日本霊性論』『現代霊性論』や『 はじめたばかりの浄土真宗』 『いきなりはじめる仏教入門』から『日本宗教のクセ』までどれも面白くて非常に勉強になりました。

 このご著作通読してみて、いまのところ、僕の言葉ではまだうまく言えないのですが、なんとなく「真に知性的であろうとすれば、人間はどうしても宗教的にならざるをえない」というような感じがしてしまいました。

 で、一番目の質問ですが、内田先生にとって「知性的」と「宗教的」の間の関係性の理路というか、ダイナミックスはなんなのかぜひ聞かせて頂けば幸いです。

 僕はいちおう「無神論者」ですので、信仰をもっている人と話していると、次第にいらいらしてきます。「私は救われる。あんたたちは救われない」という言い方をされて、見下ろされるからです。僕は思わず「死ぬまで信じてろ」と、心のなかでつぶやいてしまします。

 

 こんにちは。またまた本質的な質問ばかりですね。考えながら、お答えします。

 第一のご質問は「知性的であること」と「宗教的であること」の関係性ですね。

 著作の中で何度も書いていると思いますけれど、僕は科学的知性と宗教的知性は本質的には同じ一つのことだと思っています。

 どちらも一見するとランダムに生起しているように見える事象の背後に、ある種の美しい秩序が存在していることを直感して、その秩序を知ろうとする情熱に駆動されているからです。科学はそれを「法則」と呼び、宗教はそれを「摂理」を呼ぶ。違いはそれだけです。

 

 今さら言うまでもないことですが、僕たちの世界は極大から極小まで、「人知を超えたもの」によって取り囲まれています。そして、知性の働きは、この「人知を超えたもの」の境域のうちに1ミリでも踏み込み、それを押し広げて、「人間が生きることができる世界、人間の情理が通る世界」を押し広げてゆくことだと僕は思っています。

 宇宙工学やナノテクノロジーのことだけではありません。極小の中には「人間性」というものも含まれると僕は思います。

 例えば、他人に暴力をふるうことを抑制できない人がいます。そういう人は(暴力が正当化される)機会さえあれば他人の体と心を傷つけることを厭わない。厭わないどころか、しばしば嬉々として行う。

 そこまでゆかなくても、他人に屈辱感を与える機会をどうしても見逃せない人がいます。他人に自分の権力や才能を誇示したくて抑制が効かないという人です。そういう人は周りの人たちの生きる意欲を殺ぐことにきわめて勤勉です。彼らを駆動している「衝動」もまた、僕はある種の「人知を超えたもの」だとみなしています。端的に「悪の問題」というふうに言っていいかも知れません。

 なぜこの世には悪が存在するのか。これは科学的知性の研究対象ではありません。でも、宗教的知性にとっては、おそらく最優先の問いのはずです。

 

 僕は先端的な自然科学については、ほとんど知識がありません。ですから、それについては専門家にお任せです。でも、人間の心と体の働きについては、自分の心と体という「現物」が僕の目の前にあります。これを研究するために僕が使える時間は一生分あります。ですから、僕は「人間の中にある『人知を超えたもの』についての理解を1ミリでも進めること」を自分の知的な課題として引き受けることにしました。そうやって「人間が生きることのできる世界、人間の情理が通る世界」を少しずつ広げたい。それは、「人間」という語の定義をいくぶんかは書き換えることですし、「条理」という語の定義をいくぶんか広くすることです。

 

「悪の問題」はおそらく「人間性とはいかなるものか?」という問いの最深部にあるように思われます。そして、それをほぼ専一的に扱うのが宗教的知性だというのが僕の理解です。

「なぜこの世界には悪があるのか?」というのは弁神論(Théodicée) の核心をなす問いです。「なぜ、神が創造した世界に悪が存在するのか? 創造主が全知全能であるなら、悪が存在するはずがない。悪が存在するということは、この世界は神が創造したものではないということになるのではないか?」という厳しい問いかけに対して、神の存在を正当化しようとしたのが弁神論です。古代からさまざまな弁神論が語られましたが、どの神学者も「これで誰でも説得できる」最終的な解にたどりついてはいません。

 でも、「なぜ悪は存在するのか?」という問いを正面から受け止めたことで、人間性についての理解は深まったと僕は思います。もちろん、深まった結果が「この程度かよ」ということでしたら、反論できませんけれど。

 

 もう一つ、「救い」ということですけれど、「救い」という概念が人間に求めているのは、「できるだけ長いタイムスパンの中で思考せよ」ということではないかと思います。

 弥勒菩薩は仏陀の入滅後567千万年後の未来にこの世界に現われて人々を救済すると言われています。ユダヤ教はメシアの来臨を信じることで成立している信仰ですが、メシアがいつ来るからはわかりません。明日かも知れないし、56億年後かも知れない。キリスト教もイスラームも「最後の審判」を信じることで成立していますが、最後の審判がいつかもわからない。明日かも知れないし(以下同文)。

「救いを信じる」ためには、人々は天文学的なタイムスパンの中で、ものごとを思量する習慣を身につけなければなりません。僕はこの「望外の効果」こそが「救い」という宗教概念の本質ではないかと思います。

 

 老子の『道徳教』に「大方無隅 大器晩成 大音希聲 大象無形」という言葉があります。「大いなる方形には隅がないように見える。大いなる器は焼き上がるまでに長い時間がかかる。大いなる音は聴き取ることができない。大いなるものには形がない」という意味です。今では「大器晩成」だけは子育ての現場でときどき使われることがありますが(もう使われないかも知れません)、他はまず口の端に上ることがありません。でも、とてもたいせつな教えだと僕は思います。それは「大きい」ということにはそれ自体で深い意味があるということです。老子が言う「大きい」というのは「手持ちの『ものさし』では計量することができない」ということです。だから「大きい」ものについては、「大きい」というような形容詞さえほんとうは適用してはいけない。だって、「ものさし」を適用できない以上、「大きい」かどうかさえわからないんですから。

 ほんとうに「大きいもの」は、巨視的な、宇宙的なスケールの中に置くことによってしかその価値がわからない。それが老子の教えです。

 宗教的知性とは、こう言ってよければ、「大きさ」を畏れる心のことです。人間の手持ちの度量衡器では決して考量できないものに向き合った時のおのれの無力と卑小についての意識のことです。

 別に、それによって「自分は無力で卑小な存在だ」と縮こまったり、無力感に蝕まれたりするのではありません。「自分が今悩んでいることや、不足を感じていることや、自分が欲望しているものって、それで心を奪われるほど『大きいもの』じゃないんだ」と知ることで、執着から解き放たれて、いくぶんか涼しい気持ちになれる。

 

「救い」は本来、人間的度量衡では考量できないものに圧倒される経験のことです。朴先生がお会いした信者の方の言う「信じる者は救われる」はある程度事実かも知れませんが、「信じないものは救われない」ということは事実ではありません。神仏を信じていなくても、「世界の無量性」を実感できる人は、すでに「救われている」。なぜなら、「大きいもの」に対する畏怖の心を持っているからです。僕はそんなふうに思います。