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僕はどんなものであれ「原理主義的なもの」が嫌いなのです。そして、原理主義的立場から「できあいのものさし」でものごとの良否を査定できると思っている人たちが嫌いなのです。
2024年1月17日の内田樹さんの論考「朴先生からのご質問「原理主義について」」をご紹介する。
どおぞ。
さてここで第二番目の質問です。
マルクス主義あるいはフェミニズムへの盲信と、内田先生のレヴィナス信奉との根本的差異をお聞きしたいと思います。いや、私にはなんとなくわかるんですが、内田先生はレヴィナスへの「帰依」、批判者への「筆誅」という言葉をお使いになるので、韓国読者に対しては、そのへんをクリアしていただければと思います。
二番目の質問にお答えします。朴先生はもう「なんとなくわかる」とお書きになっていますけれど、その通りです。僕の答えはいつもと同じです。僕がある種のマルクス主義者やある種のフェミニストに対して異議を申し立てているのは、その「原理主義的」な姿勢が不適切だと思うからです。
マルクス主義もフェミニズムもすぐれた思想であり、それまではっきりとは意識化されてこなかったさまざまな社会的な不正や非道を前景化して、社会を「より住みやすいもの」にしたことについては多大な功績があります。僕はその功績は率直に認めますし、敬意も払います。でも、マルクス主義者もフェミニスト、その他の「主義者」たちの多くが陥るピットフォールは「切れ味の良すぎる思想的利器」を手にしたときに、それで「すべてのものを切りさばきたい」という欲望を抑制できないことです。
いかなる思想でも、それが効果的に適用できる分野と、あまり有効でない分野と、全く有効でない分野があります。例えば、マルクス主義やフェミニズムで文学や映画や音楽や美術を論じることは「適用過剰」だと僕は思います。そして、「適用過剰」によって、それらの思想はむしろその本来の寿命を短縮してしまったように見えます。
僕が中学生から大学生、大学院生だった頃、60年代から70年代にかけては、マルクス主義の全盛期でした。その時期、マルクス主義者たちは政治や経済や歴史について語るだけにあきたらず、芸術の領域にまで踏み込んできました。そして、個々の作物について、そこに「階級意識があるかどうか」「革命的かどうか」「前衛的であるかどうか」をうるさく査定するようになりました。僕はそれにうんざりしていました。僕はとにかく「査定されること」が大嫌いだったからです。できあいの「ものさし」をあてがわれて、査定されて、格付けされて、点数をつけられることが僕は骨の髄から嫌いなのです。
僕の書くものに階級意識が欠如していようと、革命性がなかろうと、そんなことは僕にはどうでもいいことです。僕はどうしても言いたいことがあるので書いている。「こういうふうに書くと階級意識があると評価される」というような査定基準を横目で見ながら書くなんて、まっぴらごめんです。
そもそも「他の人間が書いた模範に従って書け」というのは、「僕が書かなくても、誰かが似たようなことを代わりに書くようなことを書け」ということです。それは言い換えると「私が存在してもしなくても、世の中には何の変化もない」と宣言するということです。これは自分に対する「呪い」です。
僕は久しく「僕が語らなければ、他に僕と同じことを語る人がいないこと」だけを選択的に語ってきました。そうでなければ、ものを書く甲斐がありません。誰かが僕に代わって、僕が言いたいことを過不足なく語ってくれるなら、僕は別の「僕がしないと誰もしそうもない仕事」を探して、それをします。
そういう人間にとって、この「マルクス主義的査定」は耐えがたいものでした。さいわい、マルクス主義者たちがあちこちで人々の意識や、創作物における「階級意識の欠如」をうるさくとがめているうちに、みんなうんざりして、誰も彼らの話を聴かなくなりました。
やれやれと思っていたら、80年代にフェミニストたちが登場してきて、今度は「ジェンダー・ブラインドネスをはしなくも露呈し」とか「無意識の男性中心主義が行間からにじんで」という「フェミニズム的査定」が始まりました。
僕自身はそれまでも女性の権利拡大にはつねに賛同してきました。ご存知の通り、僕は家事労働を進んで引き受ける夫でしたし、育児については妻以上に熱心な父親でした。フェミニズムの政治的主張については最大限の敬意を払ってきました。
でも、文学や映画にまでフェミニズムが入り込んで来て、作品の良否を言い出したことについては反対しました。僕のフェミニズム批判の書『女は何を欲望するか』はたしか韓国語訳が出ていると思いますけれども、フェミニズム言語論と文学論に対する反論です。
勘違いしないで欲しいのですけれど、僕は社会理論としてのフェミニズムにはまったく反対していません。そうではなくて、それが適用されるべき領域(政治や経済や社会問題)には適用し、それが適用するのが不適切な領域(映画や文学)に持ち込むのは抑制的であって欲しいと言っているだけです。
その頃フェミニストたちの集会で「身体論」について講演することがありました。講演の後に、フロアーにいたフェミニストから「あなたの身体論は100%男性至上主義的な観念論である」と言われました。僕の語る身体論には全くジェンダーの観念がないからだそうです。彼女によると、女性は自分の身体を考えるときに、おのれの女性性をまず意識し、徹底的にそれに繋縛される。ところが、内田はそのことが全然わかっていないと言われました。
僕はしかたなくこう反論しました。もし、自分の身体をとらえるときに、「私は日本人としてしか身体をとらえることができない」とか「私はキリスト教徒としてしか身体をとらえることができない」とかいう人がいたら、「国籍とか信教とかいう人工物を経由してしか身体にアプローチできないとは、ずいぶん不自由ですね」と僕なら言います。
僕たちが武道で扱っている身体は、骨格筋とか関節とかいう解剖学的な身体から始まって、呼吸や経絡や「気の流れ」のような計測不能のものにまでに及びます。そのレベルでの活動には、自分が社会的に何者であるかというようなことはもうまったく関与しません。分子生物学レベルには、人種も国籍も信教も年齢も性別もありません。ですからもし、あなたが「私たちにとっての身体とは『女性であること』に尽くされて、いついかなる場合でも『女性であること』から抜け出すことができない」と本気で思っていらっしゃるなら、あなたは武道にはまったく向いていないですと答えました。
僕はどんなものであれ「原理主義的なもの」が嫌いなのです。そして、原理主義的立場から「できあいのものさし」でものごとの良否を査定できると思っている人たちが嫌いなのです。
では、僕のレヴィナスに対する「帰依」はどうなのか、それは原理主義ではないのか、というお訊ねが続きます。
ご存知の通り、僕は「レヴィナスの弟子」であって、「レヴィナス主義者」ではありません。「レヴィナス主義者」であるためには、「レヴィナスが何を言おうとしているか私は知っている」ということが前提になります。そうであるからこそ「レヴィナス主義に照らして」、ものごとの良否を判断できる。でも、僕はそもそも「レヴィナスが何を言おうとしているのかよくわからない」から「弟子」をしているわけです。40年以上読んで来て、まだよくわからない。そんな人間が「レヴィナス主義」の名において、何ごとかを断定的に述べることはできません。
僕がしているのは「伝道」です。「とにかくレヴィナスを読んでください」と道行くみなさんにとりすがって懇請している。
ですから、僕はこれまでさまざまな方のレヴィナス論を読みましたけれど、一度として「おまえはレヴィナスが読めていない」とか「おまえのレヴィナス理解は間違っている」とかいう論評をしたことはありません(されたことは多々ありますが)。それは他人のレヴィナスの理解度を査定する権利が僕にあるとは思っていないからです。
レヴィナスは「開かれた謎」として等しくすべての読者の前にあります。そこからひとりひとりの読者はその人固有の「意味」を読み出し、それを通じて、知性的・感性的・霊性的な成熟を遂げることができる。僕の仕事は「レヴィナスという人がここにいるよ」と告げるだけです。レヴィナスをどう読むかは、ひとりひとりの自由です。そういう人間のことを「レヴィナス主義者」と呼ぶことはできないと思います。
最後に「筆誅」の件ですけれど、これはあるフェミニストがレヴィナスはただのセクシストだと評したことに対して、「伝道者」として抗議したものです。レヴィナスであれ誰であれ、「縮減する読み」に対して僕は抗議します。自分に理解できないところについては、「理解するに値するものは何もない」というのは、いくらなんでもひどい。
レヴィナスをどう読むのもその人の自由ですし、「私はレヴィナスをこう読んだ」ということを語る自由はどなたにもあります。多様な「読み」が共生することが何よりの僕の願いです。ですから、「私はこう読んだ。そして読む価値がないと判断した。だから、みんなも読むな」という方向に読者を導くような読みは「伝道者」としては許すわけにはゆきません。それだけの話です。お分かり頂けたでしょうか。