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僕たちは「絶対にたどりつけない目的地」をめざして歩み続けます。
修行においては「どこまで旅程を進めるか」ではなく、「歩む」ことそれ自体が重要なのです。
2024年1月19日の内田樹さんの論考「朴先生からのご質問に答えるシリーズ 「宗教の本領」とは何か?」をご紹介する。
どおぞ。
第三番目の質問です。去年刊行された『日本宗教のクセ』で釈先生が、「まえがき」で書かれた一節がずっと気になっています。釈先生は「まえかき」でこう書かれています。
「 内田先生と宗教話をしていると、また少し宗教の本領に近づいた気になる。」
内田先生にとって、「宗教の本領」ってなんだと思われますか。
さあ、困ったなあ。「宗教の本領」って、釈先生が言われたことですよね。釈先生が何を考えて「こんな言葉」を口にされたのか、それを釈先生に代わって内田がお答えしてよいものでしょうか。でも、質問されたので、僕の考えを申し上げます。
僕の理解する宗教的知性とは、「超越」や「他者」や「外部」など、要するに自分の手持ちの知的なフレームワークには包摂できないものに立ち向かい、その対面がもたらす緊張を通じて、自己刷新を遂げようとする知性のことです。
これまでにも同じことを何度か書きましたけれど、僕は「連続的な自己刷新」を遂げることを「修行」と呼んでいます。そして、僕は武道家としても、あるいはレヴィナスの「弟子」としても、「修行」を続けてきました。今も「修行中」です。
僕の考える「宗教の本領」とは「修行」を求めるマインドのことです。
「修行」は東アジア独自の概念です。これは武道をはじめとする技芸の習得と宗教的な悟達の両方について用いられますが、欧米語にはこれに対応する同義語が存在しません。
ご存知のように、武道と仏教の間にはふかい親近性があります。例えば、凱風館は武道の「道場」と呼ばれていますけれども、「道場」はもともとは「菩提道場」の略語で、釈迦が悟りを開いた菩提樹の下の場所を指します。そこから派生して、ひろく仏道修行のための場を意味するようになり、さらに転義して、今日ではもっぱら武道の修練のための場所をも指すようになりました。ですから、「道場」においてなされる「修行」は、武道でも仏教でも本質的には同じものであると理解されています。
では、「修行」とは何か。
これはこれまで『武道論』や『修業論』で論じて来たことで繰り返しになりますけれど、韓国ではこの二つはどちらも訳されていないので、韓国の読者にとっては「はじめて聴く話」になるかも知れません。
武道修行の目的は「天下無敵」です。天下に一人の敵もいない状態に至ることです。仏教修行の目的は「大悟徹底」です。(たぶんそうだと思います)。悟り切って、絶対の真理と一体になる境地のことです。
もちろん、これは修行がめざす「無限消失点」のような目的であって、そこにたどりついた人はこれまで一人もいません。誰一人到達したことがない境地であっても、それが目的地であることに変わりはありません。「無限消失点」がないと遠近法の画法が存立し得ないように、この「無限消失点」がないと修行は成り立ちません。
僕たちは「絶対にたどりつけない目的地」をめざして歩み続けます。もちろん、歩むときには「先達」がいます。その「先達」の背中を見ながら歩み続ける。前を見ると、地平線まで道が続いている。その先は見えません。どこまで行っても、道は地平線の彼方に消えている。終わりが見えない。でも、その道を歩むしかない。そして、修行者たちはみな旅程の途中で息絶えます。
それで構わないのです。正しい目的地をめざして粛々と歩んできたのですから、どこで旅程を終えようと、悔いることはないし、誰に恥じることもありません。息を引き取りながら、「私は生涯かけて修行しました」と胸を張って言うことができる。
修行においては「どこまで旅程を進めるか」ではなく、「歩む」ことそれ自体が重要なのです。ですから修行においては、修行中の者が「今、全行程のどこらへんに自分がいるのか」とか「他の修行者と比べて、私はどれくらい先に進んでいるか」とかいうことを訊ねるということは起こりません。修行は決してたどりつかない目的地めざして歩くだけのことです。行程表もないし、タイムを計る人もいないし、競争相手もいません。ある意味徹底的に個人的な営みです。
前に、アメリカで坐禅の指導をしていた藤田一照さんからうかがった話ですが、教え始めてしばらくした頃、熱心に通ってきているアメリカ人が藤田さんにこう尋ねたそうです。
「もう何か月か坐禅を組みましたので、そろそろ『悟りの境地』にたどりつける頃だと思うのですが、あとどれくらい座ったら悟れますか?」
藤田さんは答えに窮したそうです。この人は「悟り」というのは「このダイエットしたら何日で体重が何キロ減るか」とか「このウェイトトレーニングしたら、何日で上腕二頭筋の径が何センチ太くなるか」とかいうのと同じような具体的な「達成目標」だと考えていたのです。なんと。
でも、それは仕方がないと思います。欧米の人たちは「行程表が示されない旅」ということの意味がたぶんよくわからないから。
それは彼らの一神教的宇宙観では、「最上位に創造主がいて、その下に天使や聖霊がいて、その下に人間がいて、その下に動物がいて、その下に植物がいて、その下に鉱物がいて・・・」という位階秩序がはっきりしているからです。宇宙的な「地図」が与えられている。人間はそれを眺めて、その「地図」のどこに自分は位置するのかを知ることができる。というか、自分がどこにいるかを知ることこそが一神教的宇宙観では人生の最重要事となります。それが「アイデンティティー」です。
でも、「自分がほんとうは何者であるかを知ること」が人生の最重要事であるというのは、「一つの考え方」であって、あらゆる人間がそうであるわけではないし、そうであるべきでもありません。
東アジアにはまた別の「考え方」があります。それが「修行」です。
「修行」と「アイデンティティー」は二項対立なんです。なんと。
「アイデンティティー」というのは一度決まるともう変わりません。変わってはならない。もちろん、その後の人生でも「アイデンティティーの揺らぎ」という危機にはたびたび遭遇しますけれども、それは「アイデンティティーの回復」によって癒されなければならない。「別人になる」という解はありません。
アイデンティティーの一番わかりやすい例は「スーパーヒーロー」です。例えばスーパーマンはある日自分がカンザス州の田舎に住むケント夫妻の実子ではなくて、クリプトン星から飛来した宇宙人だという「アイデンティティー」を発見します。そして自分が何者であり、いかなるミッションを委ねられているかを知ってから超人的なパフォーマンスを発揮することになります。彼は自分の「アイデンティティー」を確立した後は、本質的にはもう変化することがありません。人間的に成熟することもありません。
もちろん、スーパーマンだって「アイデンティティーの危機」には遭遇します。例えば、スーパーマンが活躍して悪人と戦うとき、巻き添えで市民が傷ついたりすることがあります。すると、その犠牲者の家族が「スーパーマンのバカ野郎。この人殺し」と罵ったりすることがある。つねに歓呼の声に迎えられることになれているスーパーマンは、その言葉に深く傷つき、アイデンティティーの危機を迎えて、鬱状態になります。でも、何かのはずみで再びヒーローとして活躍する機会に恵まれ、市民たちから「ありがとう」と感謝の言葉を浴びると、鬱から癒されて、もとのスーパーヒーローに戻る・・・こういう物語を僕たちは飽きるほど見せられてきました。
アメリカの「ヒーローもの」物語のパターンはすべて同じです。「ほんとうの自分に出会うと人間のパフォーマンスは爆発的に向上し、アイデンティティーが揺らぐと無力になる」。そういう話です。「別人になる」という解はないんです。
ときどき、鬱状態のヒーロー(ウルヴァリンとかランボーとか)が山の中とか外国のスラムとかに「隠棲」するというエピソードはありますけれども、それは「別人」になっているわけではなく、一時的に「偽名」を使っているだけで、そのうちに誰かが探しに来て、困難なミッションを託されて、再びヒーロー復活・・・という展開になるのです。必ず。
欧米型ヒーロー物語は「ほんとうの自分の発見」、ほとんどそれだけを中心に展開します。
でも、これまでの東アジア文化圏では、「ほんとうの自分の発見」ということはほとんど問題になったことがありません。さすがに今では欧米の影響で、そういう考え方をする人が増えてきましたけれども、これはせいぜい20世紀後半からの話です。
修行というのは、「連続的な自己刷新」のことですから、「ほんとうの自分」なんていうものはどこにもありません。昨日の自分と今日の自分は「もう別人」であるというのが修行のかんどころです。
教育論でもよく僕は「呉下の阿蒙」の話や、「名人伝」の紀昌の話を引きますけれど、どちらも「長い努力の末、昔の自分とは似ても似つかぬものになった人」の話です。それが東アジアでは「人格陶冶の正しい道」とみなされてきました。何よりたいせつなのは「今の自分」に居着かないことです。だとしたら「アイデンティティー」が問題になることはあり得ません。
修行は東アジアに固有の「自己陶冶」のあり方です。僕は武道修行を通じて、それを実践してきました。
釈先生は僕の武道に向かう態度やあるいはレヴィナス先生に仕える「弟子」の作法を見て、そこに「仏道修行に通じるもの」を感じて、「宗教の本領」という言葉を口にされたのではないかと思います。こんな説明でご理解頂けたでしょうか。