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民衆はしばしば権力を託する人間の選択を誤る
2024年1月29日の内田樹さんの論考「維新的民主主義」をご紹介する。
どおぞ。
ある新聞にときどき寄稿しているコラムの今月号にこんなことを書いた。
ある雑誌から「大阪でどうして維新はあれほど支持されているのでしょうか」という取材を受けた。同じ問いは10年以上前から繰り返し受けている。そのつど返答に窮する。維新は地方自治では失政が続いているし、党員の不祥事も止まらないのに選挙では圧勝するからである。
コロナ禍で大阪府は死者数ワースト1だった。看板政策の大阪都構想は二度否決された。全長2キロ「道頓堀プール」で世界遠泳大会を開催した場合の経済波及効果は「東京五輪を超える」と堺屋太一氏は豪語した。でも、資金が集まらず最後は80メートルにまで縮小されたがそれもかなわずに放棄された。学校と病院の統廃合が進み、公立学校と医療機関は今も減り続けている。管理強化の結果、教員志望者が激減して、学級の維持さえ難しくなっている。市営バスの運転手の給与カットは橋下市長が最初に行った「公務員バッシング」だったが、運転手が不足し、バスの減便・廃線が起きている。来年の大阪・関西万博もおそらく歴史的失敗に終わり、重い財政負荷を住民に残すことになるだろう。
どの施策を見ても、市民府民にとっては行政サービスの劣化をもたらすものばかりである。にもかかわらず大阪の有権者たちは維新に圧倒的な支持を与え続けている。なぜなのだろう。
もう17年前になるが、橋下徹氏が大阪府知事に立候補した時に、神戸女学院大学のゼミの学生たちに「彼に投票するかどうか」訊いたことがある。12人中10人が「投票する」と答えた。理由を尋訊ねたら「すぐに感情的になる」「言うことが非論理的」「隣のお兄ちゃんみたいで親しみが持てる」という答えだった。
なるほど。自分たちの代表としては自分たちより知性徳性において卓越した人ではなく、「自分たちと同程度の人間」がふさわしいと彼女たちは考えていたのだ。確かに民主主義の妙諦はそこにある。
アレクシス・ド・トクヴィルは『アメリカの民主主義』の中で、アンドリュー・ジャクソン大統領について「その性格は粗暴で、能力は中程度、彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」というにべもない人物評を記している。だが、そのジャクソン将軍をアメリカ人は二度大統領に選んだ。
「民衆はしばしば権力を託する人間の選択を誤る」とトクヴィルは書く。でも、それでいいのだ、と続ける。重要なのは、支配者と被支配者の利害が相反しないことだからだ。「もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんどの用がなく、才能は有害になろう。」
卓越した政治的能力を持ち、有徳な統治者は、民衆の意に反しても「自分が正しいと信じたこと」を断行することができる。実際にその能力を行使するかも知れない。それよりは徳性才能において民衆と同レベル程度の人間を統治者に選ぶ方が安全だ。彼らは有権者の意に反して「自分が正しいと信じたこと」を断行することはしないはずである。逆に、「こんなことをしてもろくな結果にならない」とわかっていても、やると有権者が喜ぶことならやる。
これはポピュリズム政治の本質を衝いた卓見だと思う。
大阪の有権者たちはトクヴィル的な意味ですぐれて「民主主義的」なのだと思う。
利己的であったり、嘘をついたり、弱いものいじめをしたりするのは「誰でもすること」である。「誰でもすることをする政治家」こそが民衆の代表にふさわしいというのはロジカルには正しい。
果たして、大阪のこの「民主主義」はこれからどういう社会を創り出すことになるのか。私は深い関心をもってそれを見つめている。