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コミュニケーションにおいて一番大切なのは、「中身」じゃなくて、「宛先」です。
2024年4月15日の内田樹さんの論考「連載開始のごあいさつ」をご紹介する。
どおぞ。
読者のみなさん、はじめまして。内田樹です。今月号から、『蛍雪時代』に連載することになりました。十代の人たちに直接語りかけるということは、ふだんはまずできない貴重な機会なので、お引き受けすることにしました。どうして「貴重な機会」なのか、それについて最初に書いておこうと思います。
僕は文章を書く時に宛先である「想定読者」についてできるだけ解像度の高いイメージを持つようにしています。そして、その人に「言葉が届く」ように書きます。注意して欲しいのは「言葉が届く」ということと「理解される」ということは別のレベルの出来事だということです。「理解しやすい言葉」でも届かなければ意味をなさない。「理解できない言葉」でも届くことはある。
コミュニケーションにおいて一番大切なのは、「中身」じゃなくて、「宛先」です。僕はそう考えています。郵便と同じです。どんな深い内容の手紙であっても、封筒に宛名が書いてなければ、誰も読んでくれない。
逆に、まことに不思議なことですけれども、どんなメッセージであっても、それが自分宛てであるかそうでないかは、差し出された瞬間に直感的にわかるんです。
『旧約聖書』の「創世記」にはアブラハムの前に「主」が現れる場面があります。「主」はこの世ならざるものですから、人間のかたちなんかしていません。雲の柱とか雷とか燃える柴とか、そういう驚くべき表象として出現する。当然、人語も話さない。ですから、よく考えるとアブラハムが「あ、『主』が出現してきて、私に何か話しかけた」と思うはずがないんです。驚嘆すべき形のものから、人語ならざる轟音(たぶん)が届くだけなんですから。
でも、アブラハムは「主」から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」というメッセージを正しく受信しました。でも、どうしてそんなことが可能だったのでしょう。
これは僕の個人的な見解で、キリスト教の正統教義とは無関係なのですが、アブラハムが受信したのは「主」の言葉そのものではなく、「これは自分宛てのメッセージだ」という事実だったと思うのです。
それはノイズが入るラジオ放送を受信するような経験です。自分のラジオがある電波を受信してしまった。どうしたらいいのか。とりあえずチューニングします。ラジオを手に歩き回って、少しでも音質がクリアーになる場所を探す。「主」のアブラハムへの言葉は「チューニングせよ」と命令だったと僕は思います。アブラハムは波動を身体に感じた。そして、姿勢を変えたり、生き方を変えたりしたら、そうすればよりクリアーに受信できるような気がしたから。
自分宛てのメッセージを受信したと思った人間はチューニングする。そうすればメッセージがもっとクリアーに聴き取れるに違いないと思って。直感的に。この直感がすべてのコミュニケーションの根源にあるものだと僕は思います。
僕は皆さん方くらいの年齢の時に、むさぼるように本を読みました。そして、いくつかの「チューニングすれば聴き取れそうな気がする本」と出会いました。何が書いているのか全然意味はわからない。でも、ここではない場所に行って、今とは違う生き方をすればわかるような気がした。実際にそうでした。ですから、それからずっと同じことを繰り返しています。
こんな話をみなさんが今すぐ理解してくれるかどうかは分かりません。でも、「自分が宛先かどうか」は今吟味してみてください。(『蛍雪時代』1月号)