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内田樹さんの「安倍政権の総括」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1518

日本は主権国家ではなく、アメリカの軍事的属国に過ぎない

 

 

2024年5月1日の内田樹さんの論考「安倍政権の総括」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

―彼ら二人が政権の座について実現したかったこととは、何だったのでしょうか。

 

内田 安倍さんの場合はかなり屈折しています。彼の見果てぬ夢は「大日本帝国の再建」です。ただし、一つだけ条件が付く。それは「アメリカが許容する範囲で」ということです。アメリカの「お許し」を得て、大日本帝国的な統治システムとイデオロギーを復活させること、それが安倍晋三の野望です。主観的には、祖父・岸信介の果たされなかった夢を受け継いでいるつもりなのでしょう。ただ、問題は日本は太平洋戦争でアメリカの若者たち16万5千人を殺した「旧敵国」だということです。大日本帝国の軍事的再建をアメリカは自国の安全保障上絶対に許しません。ただ、米軍は日本の自衛隊を米軍指揮下で自由に運用したいと思っているし、アメリカの軍産複合体は在庫で余っている兵器を日本に売りつけたい。だから、限定的には軍備を拡充することは許すけれども、米軍のコントロール下での活動しか認められないという条件は譲らない。

 その結果、安倍さんの「大日本帝国再建計画」は「アメリカの許諾を得て、アメリカ以外の国と戦争する権利」を手に入れるというきわめてねじくれたものになっている。その権利さえ手に入れれば、国際社会でもっと「大きな顔」ができると思っている。日本が中国や韓国や北朝鮮に侮られているのは「戦争ができない国」だからだと彼は思い込んでいる。

 憲法を改正して、「アメリカの許諾さえあれば戦争ができる国」になれば国際社会での地位が高まると彼は信じている。でもそれは、日本は主権国家ではなく、アメリカの軍事的属国に過ぎないということを国際社会に向けて改めてカミングアウトすることに他なりません。「日本はアメリカの属国だぞ」と大声で宣言することによって、国際社会から崇敬の念を抱かれ、隣国から恐れられると本気で思っているとしたら、かなり思考が混乱していると言わざるを得ません。

 その一方で、国民の基本的人権を制約して、反政府的な人は徹底的に冷遇し、弾圧することについては安倍・菅政権はきわめて熱心に取り組み、みごとな実績を上げてきました。それは、この点についてはアメリカの許諾が不要だからです。

 アメリカは自国益に資すると思えば、どんな独裁者とも手を結びます。アジアや中南米の独裁者たちがどれほど非民主的な政治を行っても、同盟国である限り、アメリカはまったく気にしなかった。ですから、日本の極右が「大日本帝国再建」のために国内をいくら非民主化しても、アメリカは口を出しません。この点については日本に政治的なフリーハンドが与えられている。

 大日本帝国の再建のためには何よりもまず日本の統治者であり続ける必要がある。そのためには、アメリカから「属国の代官」として承認される必要がある。そのためには自国益よりもアメリカの国益を優先する必要がある。こうやって安倍は「アメリカの国益を最優先に配慮するナショナリスト」という非常にねじくれたものになった。でも、この「ねじれ」は深いところでは日本人全員が共有しているものです。

「対米従属を通じて対米自立を果たす」という「ねじれた」国家戦略を戦後日本は選択しました。それ以外の選択肢がなかったのだから仕方がありません。まず徹底的に対米従属する。そして、同盟国としてアメリカから信頼を獲得する。しかるのちにアメリカからある日「これまでよく仕えてくれた。これからはもう一本立ちして、自分の国は自分で差配しなさい」と「のれん分け」を許される...というシナリオを戦後日本人は夢見てきました。従業員が主人に尽くせば尽くすほど「自立」の日が近づくと信じるのと同じです。ですから、まことに不思議なことですけれども、「もっとも対米従属的な人が、もっとも愛国的な人である」という図式が戦後日本では成り立ってしまった。

 でも、この「ねじれ」は日本人全員が深いところで共有してきたものです。日本人が集団として抱え込んでいる自己欺瞞を安倍さんは際立った仕方で演じて見せたに過ぎません。それが彼が一部の日本人から熱狂的な支持を得た理由でしょう。

 これに対して菅さんにはそもそも実現したい幻想的なビジョンがありません。就任して最初に挙げたスローガンが「自助、共助、公助」でした。国民に向かって、「自分のことは自分で始末しろ。手が足りなかったら周りを頼れ。国にはできるだけ頼るな」とまず公言するところから仕事を始めた。国民に向かって、「できるだけ国に仕事をさせるなよ」と言ったわけです。ふつう政治家になるのは国民のために何か「よきこと」をしたいからですが、彼は別に実現したい政治目標がなかった。興味があるのは、権力者の座にたどり着くことだけだった。そのための裏工作や恫喝は得意でしたけれど、政権の座に上り詰めてから、やりたいことは何か考えたら「できるだけ国民のためには仕事をしたくない」というのが一番やりたいことだったということに気がついた。

 

―1955年以降続いた長期自民党政権と今の自民党政権とでは、政治の質はどのように変わったのでしょうか。

 

内田 55年体制当時の自民党は、ハト派からタカ派まで、立場を異にする人たちが集まっていました。例えば、僕のかつての岳父も自民党の代議士でしたが、戦前は日本共産党の中央委員で、特高に捕まって拷問された経験を持っていました。逆に、岳父の叔父は、戦前は農本ファシストだったけれども戦後は社会党の国会議員でした。だから、「所属政党は違うけれど、人間はよく知っている」ということが多々あったわけです。そういう人間的なネットワークが基になって、55年体制のいわゆる「国対政治」はできていたのだと思います。

 自民党の内部でもイデオロギー的な統一性はなかった。だから、ある政権がきわめて不人気な政策をとって支持率が急落した場合でも、「疑似政権交代」によって、有権者の目をそらして、政権を維持することができた。

 

 岸信介内閣の時、60年安保闘争で国論が二分した後には、「寛容と忍耐」、「所得倍増」を掲げる池田勇人内閣が登場して、「不愉快な隣人とも共存する」という国民融和が図られた。佐藤栄作内閣の時代にはベトナム戦争をめぐって国論が二分しましたけれど、次に登場した田中角栄内閣は「日本列島改造論」を掲げて、全国民が経済的に受益する政策によって国民融和を図った。分断的な政治家の後には融和的な政治家が登場して、国内の対立を鎮める。そういう「二人羽織」のような巧妙な術を使うことで、自民党の長期政権は維持された。