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生き物は可動域が広く、次の行動の選択肢が多いところにいると安心し、自由度が失われると不安になる。
2024年5月8日の内田樹さんの論考「自由と居場所」をご紹介する。
どおぞ。
年若い友人から若者の貧困について現場の話を聞きました。彼は貧困者の救援活動をしている団体の職員をしています。救援拠点には「お腹を減らした若者たち」が集まって炊き出しの前に列を作っている。この時代に「ご飯が食べられない」という若者が何百人もいると聞いて驚きました。
その多くは、家はあるが家にはいたくないのだそうです。家には自分の居場所がない。だから外にさまよい出ている。でも、お金がない。結果的に犯罪に巻き込まれて、被害者になったり加害者になったりするリスクに身をさらすことになる。そういう話を聞きました。
話を聞きながら「居場所がない」というのはどういう意味だろうと思いました。なんかその言い方は違うんじゃないかという気がしたのです。たぶん家でも学校でも「居場所」はあるのです。でも、彼らはそこにいたくないのです。というのは、そこにいると自分が何者であるか、何をすべきか、何を言うべきか、それがすべて決められていて、それ以外に選択の余地がないから。狭いところに閉じ込められていて、身動きできず、息ができないから。それが若者たちが「居場所がない」と言うときの実相ではないか。そんな気がしました。
家庭内でも、学校内でも、バイト先でも、友だちといる時でも、自分の占めるべき立場も、自分がしてよいことも、口にしてよい言葉も、着るべき服も、全部決められていて、そこから一歩も出ることが許されない。その「たこつぼ」のようなところにじっとしていれば、とりあえずご飯を食べたり、寝たり、授業を受けたりすることは許されるけれど、そこから出ることは許されない。それが「居場所がない」ということの実感ではないか、そんな気がします。
何年か前にアメリカの雑誌が日本の大学教育についての特集をしたことがありました。その時のインタビューの答えが印象に残っています。学生たちは自分たちのキャンパスライフを三つの形容詞で説明したのです。trapped, suffocating, stuck の三つです。「罠にかかった」「息ができない」「身動きできない」。たぶんこのコラムを読んでいる高校生にもこの実感は理解できると思います。
日本社会は若者たちにひどく「冷たい」と思います。でも、それは、社会が彼らを放置しているからではない。逆です。あらゆる機会をとらえては監獄のように「狭いところ」に閉じ込めようとしている。鉄格子の中だから「冷たい」と感じる。
前にブラジルで10年暮らしてから日本に戻って来た友だちから、こんな話を聞きました。彼女の子どもが小学校から帰って、「今日、学校で先生に変な質問されたのだけれど、答えられなかった」と言ったそうです。「なんて質問されの?」と訊いたら、「君は将来何になるのか?」と訊かれたのだそうです。ブラジルにいたときは大人からそんなことを訊かれたことが一度もなかったので、意味がわからなかった、と。
その話を聞いて、僕も小さい時からその質問が嫌いだったことを思い出しました。いつも嘘ばかりついていました。それにしても、なぜ大人たちは子どもを早くから「枠」にはめようとするのでしょう。
今は小学校から「キャリアパスポート」なるものを持たせて、最短距離で将来のキャリア形成に向かえるように子どもを「狭い道」に追い込んでいるようです。ですから、いま子どもたちは「将来の夢は?」と訊かれると、暗い顔をするそうです。当然だと思います。生き物は可動域が広く、次の行動の選択肢が多いところにいると安心し、自由度が失われると不安になる。今の日本の教育は子どもたちを生物として弱くするために一生懸命に努力をしているように僕には思われます。(『蛍雪時代』2月号)