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内田樹さんの「近代市民社会の再興のために」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1553

日本を壊しているのは日本人自身です。「自分さえよければそれでいい」という人たちが日本の公共を壊している。

 

 

2024年7月21日の内田樹さんの論考「近代市民社会の再興のために」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

―欧米と同じように、日本もグローバル化の影響で国民国家の枠組みが動揺しています。

 

内田 日本は「縁故主義」(nepotism)と「部族民主主義」(tribe democracy)のせいで、今や「三流独裁国」に転落しつつあります。自民党の世襲議員たちは縁故がらみの部族を形成して、国民から供託された公権力を私利のために用い、公金を私物化しています。でも、そんな無法ができるのは、エスタブリッシュメントのメンバーたちがお互いに融通を図り、連携を密にして、相互扶助ネットワークを形成しているからです。

 一方、貧しい国民は「自己責任」を求められ、分断し孤立しています。奇妙な話ですが、豊かな人たちはしっかり相互扶助の仕組みを作り、その恩恵を享受しているのに対して、貧しい大衆は苛烈な競争に投じられ、お互いの足を引っ張り合い、公共財の分配に与ることができず、政治的に無力な状態に釘付けにされている。

 この点を見落としている人が多いのですが、今の日本は二つの集団原理が並行して存在しているのです。エスタブリッシュメントはしっかり相互扶助ネットワークを形成して、メンバーの政治的・経済的リスクをカバーしている。そのおかげで法を犯しても処罰されず、裏金を懐に入れても課税されない、どれほど失政をしてもメディアは報道しない・・・という仕方で特権を享受している。それに対して、貧しく無力な大衆たちには「勝った者が総取りして、負けたものは自己責任で路頭で野垂れ死にするしかない」という新自由主義イデオロギーが選択的にアナウンスされている。

 勘違いしている人が多いのですが、権力と財貨を占有するエスタブリッシュメントは「新自由主義」イデオロギーなんか信じていませんよ。これは「貧乏人向け」のイデオロギーなんです。エスタブリッシュメントの方々は職業選択の自由も移動の自由も言論の自由も断念して、部族に忠誠を誓い、部族から命じられた役割を忠実に演じ、その代償として権力と富の分配に与っている。彼らは自分たちだけの「小さな公共」をとても大切にしている。ブルジョワジーは連帯し、プロレタリアは孤立させられている。昔からずっとそうなんです。だからマルクスは『万国のプロレタリア、連帯せよ』と呼号したんです。ブルジョワジーが国境を越えて連帯しているのに、プロレタリアが孤立してたら勝ち目がありませんからね。

 今の日本のように国民の多数が貧しく、政治的に無力な状態に置かれると、たしかに統治コストは安く上がります。支配層が公共財を私物化しても、公権力を私事に利用しても、異議を申し立てる人がいない。「エスタブリッシュメント」にしてみたら、まことに暮らしやすい社会です。でも、そんな社会からはもう「新しいもの」は何も生まれてきません。どんどん国力が減退してゆくだけです。今の支配体制が続けば、日本の国際社会におけるプレゼンスは底なしに低下してゆくでしょう。でも、エスタブリッシュメントはそんなこと別に気にしていない。彼らにしてみたら国なんてどうでもいいんです。まだ日本にはいくらでも「売れるもの」がある。土地も売れるし、観光資源も売れるし、水も売れるし、社会的インフラも売れる。それを外資に売り払って私財に付け替えていれば、日本が沈む時に、自分たちだけはハワイでもシンガポールでもカナダでも逃げ出して、日本を売った代価で孫の代くらいまでなら優雅に暮らせる。だからだいぶ前から「泥船」から逃げ出す準備だけはしてますけれども、ぎりぎりまで「泥船」に踏みとどまって、持ち出せる限りの財宝を持ち出して、自分たち専用の「救命ボート」で逃げ出すつもりでいる。

 もう「日本」という政治単位そのものの土台が崩れようとしている。排外主義の亢進はその「国が壊れる」ことへの恐怖心が生み出したものですが、別に移民や外国人が日本を壊しているわけではありません。日本を壊しているのは日本人自身です。「自分さえよければそれでいい」という人たちが日本の公共を壊している。

 中国脅威論や移民亡国論のような排外主義的な言説がこれからますます盛んになるでしょう。でも、何より許しがたいのは、公権力を私的に利用し、公共財を私物化してきた自民党が国民に向かって「愛国心が足りない」などと言っていることです。どの口が言うのか。

 本当に愛国心を涵養したいのなら、「世界のどの国にも住みたくない。何がなんでもこの国で暮らしたい」と全国民が思えるほど居心地のよい国を作ればいい。それなら国民は自分の国を守るためになら何でもしようと思いますよ。税金だって喜んで払うし、国旗にも敬意を示す。愛国心はプロパガンダで生まれるものじゃない。

 それに日本はまだまだ捨てたものじゃありません。北九州で「抱僕」というホームレス支援活動をしている奥田知志牧師、大阪で「D×P」という10代の少年少女を支援している今井紀明さんなど、全国各地で心ある人々が身銭を切って「公共」を立ち上げ、見返りを求めないで相互支援ネットワークを手作りしている。

 今起きているのは「前近代への退行」「公共からの撤退」です。だから、僕たちが目指すべき方向は明らかです。「近代市民社会」の理念に回帰して、「公共」を再構築することです。ただし、それはエスタブリッシュメントがやっているような部族的な相互支援とは違います。彼らは僕たちが差し出した公共物を食い物にするための収奪のネットワークを形成している。僕たちがめざすのは公共を創り出す贈与のネットワークです。誰からも収奪しない。国際社会では国際秩序を維持し、日本国内では相互支援ネットワークを立ち上げてゆく。

 

― 内田さんは日本が目指すべき方向として「日本型コミューン主義」を唱えています。

 

内田 日本の伝統的な統治の理想は「君民共治」です。天皇を中心に日本がまとまり、国民が「社稷」的共同体のうちに所を得て安らぐ姿を古代から日本人は理想としてきた。その理想の実現を妨げているのは、君と民の間にわだかまって権力と財貨を独占する中間的権力機構であるという「物語」は古代からずっと同じです。蘇我氏、藤原氏、平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏・・・これらの「君側の奸」たる中間的権力機構を廃して、「君民共治」の理想に回帰する。このストーリーパターンは大化の改新から三島由紀夫まで変わりません。日本人の政治的エネルギーはそういう「君民共治的コミューン主義」でしか高揚しない。

 19世紀から後、明治維新、大正維新、昭和維新・・・と政治革命には必ず「維れ新たなり」という言葉が使われましたけれど、意味するところはどれも同じです。そして、それを掲げて政治革命を主導した人たちが次の中間権力者になるという末路も同じです。暴力的に権力や財貨を奪取した者は、そのふるまいを通じて「斃されるべき者」という歴史的カテゴリーに組みこまれる。どうやってこの前者の轍を踏まずに日本的コミューン主義を実現するのか。それが僕たちの思想的課題だと思います。

 今の権力者を打倒し、その権力財貨を奪い取ることではなく、自らが持てるものを「差し出す」ことによって、贈与したものを原資として新しい公共を実現する。それが僕の提唱する「日本型コミューン主義」です。

 

― 血を流さず国を変える道があるのですか。

 

内田 わかりません。でも、「贈与しても目減りしないもの」を公共の基礎にするということは理論的には可能です。権力や財貨は奪い取られると失われる。ゼロサムのゲームです。だから争いが終わらない。文化資本は「贈与しても目減りしないもの」です。知識や教養や技能は与えても減らない。

 ふつう支配階層は権力と財貨と文化資本を独占し、もっぱら文化資本の格差を階層形成の「ものさし」に使います。でも、なぜか現代日本では全くそうなっていません。エスタブリッシュメントたちは力とカネの占有にはたいへん熱心ですが、文化資本にはまったく関心がない。今の日本の権力者の中に歌を詠んだり、詩を書いたり、能楽や義太夫を稽古したり、武道や修験の修行をしたり、参禅したりする人はほぼゼロです。「文化には価値がない」というのが現代日本のエスタブリッシュメントの合意らしい。

 だから、貧しい大衆が文化資本を獲得して、知性的・感性的に成熟してゆくことを彼らは「領域侵犯」だとはとらえていない。興味ないから。日本のエスタブリッシュメントは自分たち自身が幼児的であるので、市民的成熟に何の価値も認めていない。成熟することの意味を知らない。でも、人間が市民的に成熟を遂げるというのは、それだけ強力な現実変成力を持つようになるということです。いま起きていることを長いタイムスパンの中で考察し、未来を適切に予測できれば、現実を変えることができる。

 カネや権力と違って、文化資本はいくら贈与しても減りません。僕は凱風館で合気道を教えているわけですが、いくら教えても、それで僕の手持ちの文化資本は減るわけではない。むしろ教えることを通じて僕の技術も高まり、知見も深まる。門人が独立して新しい道場を開いても、僕の道場に来る人が減るわけではない。合気道を稽古する人が増えるだけです。別に僕たちはゼロサムの取り合いをしているわけじゃない。ただ稽古を通じて生きる知恵と力を高める人を増やしているだけです。

 たまたま僕は自分の家を公共の道場として提供しているわけですが、それは何でもいいと思います。図書館でも、祠でも、舞台でも、コンサートホールでも何でもいい、それぞれが手持ちの文化資本を贈与したものを原資として「公共」を立ち上げて、文化資本が広く、できるだけ多くの人に行き渡るための拠点とする。僕はこれがこれからの「日本的コミューン主義」の戦い方だと考えています。迂遠な方法と思われるかも知れませんが、「知性と教養を備えた大人の頭数を増やすこと」が最も確実に社会を住みやすくする方法だと僕は信じています。

 21世紀の日本人に課されているのは、太古的な起源を持つ天皇制と近代的な擬制である立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」をすり合わせて、共生させるという難問です。これを両立させるのが現代の「君民共治」であると僕は理解しています。そして、この難問に向き合うためには日本国民の市民的成熟が不可欠です。「大人になることこそが革命的なふるまいである」という僕の理屈はわかりにくいと思いますが、「わかりにくいから話を簡単にしてくれ」という要求にずるずる屈服した結果が今の日本の知的惨状である以上、話を簡単にするわけにはゆきません。(インタビュアー杉原悠人)

 

(6月30日 聞き手・構成 杉原悠人)