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決められた仕様の人材を「人形焼き」のように叩き出すことが最優先で、そこには子どもたちの蔵している無数の潜在可能性に対する敬意と想像力が決定的に欠けている。
2024年8月31日の内田樹さんの論考「大阪市の教育委員会に招かれた」をご紹介する。
どおぞ。
大阪市教育委員会から講演依頼を受けた。教員たちの団体からはこれまで何度も講演に招かれているが、教委からお声がけ頂いたのは初めてである。大阪の教育行政を手厳しく批判し続けてきた私の下に教委から講演依頼が来たというのは、大阪市のこれまでの教育行政に現場が拒否反応を示し始めたことの徴候かも知れない。
私の教育論は別にそれほど反体制的なものではない。
学校の機能は子どもたちの査定や格付けではなく、彼らの市民的成熟を支援することである、というしごくまっとうな主張である。だから、教員たちが子どもたちに向けて告げるべき言葉は「私は君たちを歓待し、君たちを守り、君たちの成熟を支援する」でなければならない。子どもたちを歓待し、保護し、支援するのが学校の役目である。私はそう信じている。
多くの教員は私の言葉に同意してくれる。でも、教育行政の要路にいる方たちは違う。
彼らの多くは学校というのは「子どもたちを査定し、格付けし、能力は高いが賃金は安い、使い勝手のよい人材を作り出す」ための工場のようなものだと考えている。そのことは、「PDCAサイクルを回す」とか「学士号の質保証」とか「ポートフォリオ」いう彼らが偏愛する工学的比喩からも知られる。彼らが気にかけているのは工程の管理である。決められた仕様の人材を「人形焼き」のように叩き出すことが最優先で、そこには子どもたちの蔵している無数の潜在可能性に対する敬意と想像力が決定的に欠けている。
子どもたちは工業製品ではない。生ものである。その潜在的な資質がいつ、どういうきっかけで開花するのかは、誰にも予測できない。工程管理なんかできるはずがない。子どもは缶詰や自動車ではない。
教員に求められるのは、忍耐強くかつ楽観的に子どもたちをみつめることである。どんな教科をどう教えるか、どんな知識や技能を習得させるかは副次的なことに過ぎない。学ぶ意欲が起動すれば、子どもたちは乾いたスポンジが水を吸うように自学自習する。そして、学ぶ意欲がいつどういうきっかけで起動するかは誰にもわからない。だから、さまざまな「きっかけ」を用意して、子どもたちの前に並べて置くことしか教員にはできないし、それで十分だと私は思う。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というのが最も効率的であるというのが過去二百年の公教育の歴史から導かれた経験知である。そういう話をしてきた。(日本農業新聞、8月30日)