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どれほど難しい語彙でも、ねじくれたロジックであっても、それを受け止め理解できるような「学ぶ主体」に自己形成してゆくことは可能だ
2024年9月18日の内田樹さんの論考「内田樹ロング・インタビュー」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
私の「総索引」を作ってくれる神野壮人さんが凱風館まで来て、ロング・インタビューをしてくれた。
2時間にわたるインタビューだったのでとても全部は掲載できないので、ここで「予告編」として最初の方をご紹介する。
全編を読みたい方は、そのうち「総索引」でURLが公開されると思うので、それを待たれたい。
──私は、内田先生の研究者ではなく、伝道者になりたいです。
内田 そのポジションがいいですよ。
──ですから今後は駆け出しの未熟者として、内田先生からのお叱りを覚悟の上で論じ、またファンとして内田樹を伝道したいと思います。
内田 研究者と伝道者は別物です。一知半解でも伝道者にはなれます。その人の書いたものを一行だけ読んで、「この人はこういうことを言いたいに違いない」と思ったら、自分が思ったことを伝道して構わない。知識量は関係ないんです。ぜひ伝道して下さい。
──ありがとうございます。
内田 総索引がすごいですね。総索引、お一人でやるんじゃなくて、せっかくですからいろんな人たちと共同作業で、ウィキペディアみたいにやってくというのが手間がかからないような気がしますけどね。
──私も同じことを考えてはいるのですが、今のところ同志が集まらないです。
内田 やってくれそうなのは朴東燮先生ぐらいですかね。
──そうですね。総索引の想定読者は、大学時代の恩師、内田先生、朴先生の三人です。ただ続けていくうちに、少しでも読者が増えればとてもうれしいです。
内田 誰もそんなこと思いつく人いなかったから、そういう企画があると知ったら「協力します」という人が出てくるかもしれないですね。
──早速ですが、本題に入らせていただきます。内田先生は「内田樹をまったく知らない人」に対して、ご自身のことをどのように説明されますか。わかりにくい質問ですみません。例え話をします。100年後の未来に移動したと仮定してください。内田先生の目の前には、一人の中高生と思しき未来人がいます。未来人は、内田先生の言葉を理解しているようです。中学卒業程度の学力があることも分かりました。しかし内田先生は、未来人に素性を明かすことができません。素性を知られると、内田先生の存在自体が消滅してしまうからです。元の世界に戻るためには、この未来人に「内田樹」の書物を読んでもらうしかない。内田先生はどのようにして、この未来人に「内田樹」のことを説明されますか。
内田 難しいな。言論活動を開始したのが2001年ぐらいからで、20年間ちょっとの活動ですから、それ以前のことについてはあまり話すべきことがないのです。日本の思想史とか言論史とかの中に小さい項目として僕の名前が残るとしたら、たぶん数行で終わってしまうと思います。なんだろう。21世紀の始めぐらいに登場してきた物書きで、専門は20世紀フランスの哲学と文学。でも、それだけをやっているのではなくて、そこで得た知見をできるだけ分かり易く一般の方たちに説明するということを非常に優先的にやってきた。説明の人、説明家。そんな感じかな。
僕が専門的に語れるのは、今申し上げたように、20世紀のフランスの哲学と文学。それから武道、これは合気道にほぼ限定されるのですけれども。それから長く教鞭を執ってきたので教育に関しては、経験を踏まえて語ることができます。あとはみんなと同じですね。一市民として、家庭人として、子どもとして、夫として、親として、そういう個人的な経験に関しては、「個人的な」という限定をつけてなら語ることができます。
それだけですね。「説明する人」です。なんかあんまり面白くなさそうですけど、説明が上手だということは自分でも分かるんです。20世紀フランスの現代思想というのはすごく分かりにくいんです。もちろん非常に高いレベルのことをやっているからこそ分かりにくいんですけれども、言葉が難しい。ふつうの日本人の高校生だと、例外的に高い知的向上心があっても、「取り付く島」がないんです。あまりに言葉づかいが難しく、ロジックがねじくれているから。僕の仕事は、その人と高校生の間を架橋することですね。「すごく難しいように思えるかも知れないけれど、これは噛み砕いていうと、こういうことですよ」と。「噛み砕き屋」ですね。
でも、「噛み砕いて言う」というのは「話を簡単にする」ということとは違うんです。「ああ、そんなことなのか」と簡単に分かってもらっては困るんです。話を簡単にして、高校生に「分かった気」にさせることが目的なんじゃない。たしかになんとか高校生にも分かるような言葉に落とし込んでいくのだけれども、それはそこで「分かった」と言って、話を終わらせるためじゃなくて、逆なんです。それをきっかけにして彼らのうちなる「学び」が起動して、「もっと知りたい」という気持ちになって欲しくて、だから架橋するんです。高校生が生まれてから初めて接するような精神の活動に「こんなの見たことないから」と背を向けて欲しくなくて、「これ、君にも関係がある話なんだよ」と袖を引いて、そうやって架橋するんです。どれほど難しい語彙でも、ねじくれたロジックであっても、それを受け止め理解できるような「学ぶ主体」に自己形成してゆくことは可能だ、と。それに気づいて欲しいんです。教師根性が抜けないんですね。とにかく一生懸命説明していって、食いついてきたら引っ張ってゆく。彼らの知的な向上心を刺激して、ものの見方を広げて、一人一人の知性的な、感情的な成熟を支援する。根っからの教育者なんですね。道場では門人を教え、学校では学生を教え、本を書く活動を通じては不特定多数の人たちに対してはそのつど何かを教えている。だから、「噛み砕いて説明する人」で「架橋する人」で「教育者」なんです。