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内田樹さんの「内田樹ロング・インタビュー」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1569

レヴィナス先生はこう言われている。たぶん、そうだと思う。よう知らんけど。

 

 

2024年9月18日の内田樹さんの論考「内田樹ロング・インタビュー」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

──内田先生を説明することの難しさを感じています。例えば、「内田樹のことを見たことも聞いたこともない人」に対して、限られた時間の中でどのように説明すればいいでしょうか。

 

内田 難しいと思いますよ(笑)。僕だって「レヴィナスってどんな人ですか。5分で説明してください」と言われたら無理です。レヴィナスについても、多田先生についても、あるいはアルベール・カミュとか村上春樹とかもそうですけども、自分がその人の熱烈なファンであって、その伝道をやっている人たちについては、うまく説明できないんです。定型的な言葉に落とし込むことができないから。うまく説明できないということ自体が、自分がその人たちの弟子であったり、伝道者であったりすることの理由なわけですから。だから、うまく言えないということについては、別に困らない。断片的なことしか言えませんけれど。「こんなことを言った人で、こんなことをした人で...、でも、こんな説明じゃ分かりませんよね。すみません」くらいしか言えない。でも、それでいいと思うんです。

 偉大な師のことを5分では説明できないですよね。僕の手持ちの「ものさし」ではその偉大さを測りきれないぐらい偉大な人だからこそ、僕はその人を「師」と仰いでいるわけですからね。

 前にイタリア人の合気道家と稽古の後にお酒を飲んでいたら、いきなり「内田さんはどうしてレヴィナスを研究するようになったのですか。日本人なのに」と聞かれて、返答に窮したことがありました。日本ではあまりストレートにそういうことを訊く人っていないんです。フランス文学関係者だったら、「レヴィナス研究してます」と言ったら「レヴィナスですか。そうですか。難しいですよね」くらいで話が終わる。それはレヴィナスの哲学史的な位置づけがだいたい定まっているからです。専門家同士だと「どうしてあなたはレヴィナスを研究するのか?」というような個人的な質問が出ることはないんです。

 ふだん訊かれたことがなかったから、イタリア人にいきなり「日本人で、非ユダヤ教徒であるあなたが、なぜレヴィナスの研究を始めたのか」と訊かれたら絶句してしまった。ほんとうに説明できなかったんです。「60年代の日本の高校生はフランス文化にあこがれていたんです」というようなことを言いかけたんですけれど、ここからレヴィナスにつなげるのは大変だな・・・と思ったら先が続かなかった。そのときはフランス語で訊かれたから、うまく言葉が出ないのかなと思いましたけれど、日本語で聞かれても同じだろうとあとから思いました。

 でも、これは答えられなくていいと思うんですよね。「うまく説明できないけれど、とにかくこの人を師と仰いで、一生ついてゆこうと思った」んですから。それは多田先生も同じなんです。そのイタリア人の合気道家に「どうして多田先生の道場に入門したんですか?」と訊かれてもたぶん答えられなかった。「ビールを飲みに街に出て、歩いていたら、自由が丘駅の南口に柔道場があって・・・」というところから始めても、たぶん「なぜ多田先生なのか」については何も伝えられなかったと思います。

 

──内田先生は、橋本治を説明の天才として挙げられています。また、橋本治に気づかされたことの一つとして、「個性は説明において発現する」という卓見を述べられていました。内田先生は、橋本治という説明家を説明するという困難な事業に取り組まれています。私もまた、内田樹という説明家を説明したいです。けれどもそれは、非常に難しい。

 

内田 おっしゃる通り、僕は説明が難しい人だと思いますが、率直に言って、それは僕が「中身のない人」だからなんですよ。僕は「器」みたいな人間なんです。「入れ物」なんです。あるいは「伝導管」とか。中を物が流れてゆく「パイプ」のような人間なんです。レヴィナスという偉大な哲学者がいる。その人がこういう素晴らしい考えを語っているということを自分のパイプを通して流してゆく。多田先生という方がいて、こういう武道の理想を実現されようとしている。僕は先生の境地には遠く及ばないけれども、先生の教えから自分の「器」で汲み取ったものだけを伝えてゆく。僕は「通り道」なんですよ。「述べて作らず」ということを僕よく書きますけれど、そうなんですよ。

 だから、僕のことを説明するのが難しいのは当然なんです。だって、「内田オリジナルのアイデア」というようなものはないんですから。ただの「通り道」なんです。僕の書いているのは全部「受け売り」なんです。僕はね、巨大な知者の言葉を噛み砕いて、「みなさん、どうぞこれお使い下さい」と無料で配布している(笑)。そういう伝道者なんです。筒っぽみたいな人なんですよ。

 筒にとって一番たいせつなのは、師の巨大な叡智を自分のサイズに切り縮めないことです。でも、筒の径はたかが知れている。だから、いくらがんばってフルスケールの通り道になろうとしても、どこかで師の教えを切り刻んだり、縮減したりすることは避けられない。だから、僕は「論」を語らないことにしているんです。「論」になると、それは僕のオリジナルな考えだということになりますよね。そうじゃないと研究業績になりませんから。「祖述」なんか、どれほど書いても学術論文としては認められない。でも、僕は「祖述者」でありたいわけであって、「研究者」になりたいわけじゃないんです。

 レヴィナスに関して、これまで本を三冊書いてますけれど、あれは「レヴィナス論」じゃないんです。レヴィナス先生というのがどんな人で、何を教えようとしていたのかを「説明する」ために書いているわけであって、僕のレヴィナス理解を「主張」しているわけじゃないんです。だから、レヴィナスの翻訳とあまり変わらないんです。翻訳というのも、かなりの部分までは翻訳者の解釈です。訳者が「意味がわかったところ」は訳せるけれど、「意味がわからないところ」は訳せない。だから、翻訳も縮減なんです。訳者の器の大きさによって訳文は変わるんですから。僕の「レヴィナス論」もその意味では翻訳のようなものです。レヴィナス先生はこう言われている。たぶん、そうだと思う。よう知らんけど。そういうものです。

 だから、僕がレヴィナスについて書いたものには学問的なオリジナリティーはないんです。他のレヴィナス研究者の人たちにインタビューしても、たぶんそう言うと思います。「内田さんの翻訳は先駆的な仕事でしたけれど、レヴィナスについての独自な学説というものは別にないんじゃないですか。ただ『レヴィナスはすごいすごい』と言いふらしているだけの人で」と。

 レヴィナス研究者は世界中には何千人もいますが、その人たちのほとんどは僕の書いたものを読んでいません。だって日本語で書いてるんですからね。韓国語には訳されましたが、英語にもフランス語にも訳されていない。だから、世界のレヴィナス研究者のほとんどは僕の書いたものは読んでいないし、僕の名前も知らないと思います。

 日本のレヴィナシアンにも僕の翻訳やレヴィナス本を読んでレヴィナスに興味を持つようになったという人はいても、僕のレヴィナス「論」に学的興味を抱いたという人はいないと思いますよ。「あの人のは初心者向けの入門書でしょ」という評価じゃないでしょうか。(続く)