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内田樹さんの「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.1583

教育は惰性の強い仕組みなんです。もちろん変化しますが、ゆっくりとしか変化しない。急激な変化は受け付けない。

 

 

2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

どうもこんにちは。ご紹介いただきました内田です。飯能というところ来るのは初めてです。先ほどご紹介いただいた通り、僕は神戸で「凱風館」という武道の道場と学塾をやっております。そこに9年に入門された井手くんと岡野さんというご夫婦がいます。井手君は僕のIT秘書というのをやっていただいております。岡野さんはこの5月から書生として働いていただいています。凱風館には今書生が5人いるんですけども、その中で一番の新人です。そういうご縁のあるお二人がこの自由の森学園の卒業生ということで、このたび40周年の記念講演にお招きいただくことになりました。

 自由の森学園創建40周年おめでとうございます。卒業生、在校生がこれだけ集まってくれるということは、それだけ母校に対する愛情が深いからだと思います。二人の門人も遠く神戸から今日ここまで来てくれました。卒業した学校のためにここまで献身的になるというのは、なかなかできないことです。

 僕は自分の卒業した学校に関してほとんど愛着がありません。大学から寄付を求められたことがありましたけれど、そのままゴミ箱に投げ捨ました。1回だけ、母校の文学部から文学部に来る学生数が激減してしまい、なんとかテコ入れをしたいので「文学部に進学してください」という宣伝パンフレットを作るのでそこにご登場いただきたいというリクエストにお応えしたことがあります。でも、後にも先にも、母校のために何かしたというのは、それきりです。

 何人かよい友だちができたこと以外に「ああ、あの大学に行ってほんとうによかった」と思ったことがありません。学校に対しては何も感謝していない。そういう人間から見ると、卒業生たちが母校に対してこれだけ強い愛着、愛情が持てるということは、ここでなされたすばらしい教育の成果だと思います。

 僕は長く神戸女学院大学というところの教師をしておりました。神戸女学院は中学から大学まである女子校ですが、ここでも卒業生たちの愛校心に驚かされました。ほんとうに小さい学校なのですが、歴史が長いので同窓会員が3万人ぐらいいます。この3万人の方たちが学校のあり方に大きな影響力を発揮している。

 僕は同窓生が母校の教学や経営に関して発言することは決して悪いことだとは思わないんです。むしろ好ましく思っていました。というのは、同窓生は「母校が変わらないこと」を願うからです。自分が卒業した学校がそのあとどんどん変わって、キャンパスが移転し、カリキュラムが変わり、卒業した学科や学部がなくなる...ということを同窓生は望まない。学校経営者はビジネスマン的なセンスに従って、そういうふうに「時流に合わせる」ことをしたがるんですけれど、同窓会の人たちは変化に抵抗するんです。そりゃそうですよね。自分が卒業した学部学科がなくなるということは、「あなたが受けた教育は意味がなかった。もう時代遅れなんだ」と卒業生に向かって宣告するに等しいわけですからね。卒業生に対して「あなた方が受けた教育はもう社会的有用性を失った」と告げることは、教育機関としては本来恥ずべきことだと思うんですよね。たしかに学科・学部を廃止したり新設したりということは避けられないことではあると思うんですけれど、それに対して学校側はある種の「疚しさ」を感ずべきだと思うんです。

 学校というのは宇沢弘文先生が言うところの「社会的共通資本」の一つです。「社会共通資本」というのは、集団が存続していくために絶対に必要なもので、これは専門家によって専門的知見に基づいて、安定的に管理・運営されなければならない。大気、土壌、海洋、河川、湖沼、森林とかいう自然環境。それから社会的インフラ。上下水道、交通網、通信網、電気ガス。これらも安定的に管理されなければいけない。そしてもう一つ、司法、行政、医療、教育といったシステムですね。これらもまた集団が存続していくためになくてはならないものです。社会的共通資本は急激に変化してはいけないんです。もちろん変化はするんですけれども、ゆっくりとしか変化しない。

 政治や経済は急激に変化するものです。政治や経済は「複雑系」ですから仕方がありません。「複雑系」というのは、わずかな入力変化によって劇的な出力変化が生じるシステムのことです。「北京で蝶が羽ばたくとカリフォルニアでハリケーンが起きる」という喩えがよく使われますけれど、わずかな入力変化が劇的な出力変化になる。だから政治や経済はおもしろいわけです。みんな夢中になる。個人のコミットメントによって、場合によっては状況や市場が一変することがあるんですから楽しくないはずはない。政治や経済は「そういうもの」なんです。それを楽しむ人たちは楽しめばいい。

 けれども、それ以外の人間の営みは必ずしも政治や経済と同じような複雑系ではないし、複雑系であってはならない。わずかな入力変化によって劇的にシステムが変わってしまっては困るものが僕たちの周りには多々あるわけですよね。行政とか司法とか医療とか教育はそういうものです。政権交代したから司法判断が変わるとか、株価が下がったので教育カリキュラムが変わるとか、そういうことがあっては困る。極端な話、革命が起きても、戦争が始まっても、水道からは水が出るし、地下鉄は時間通り来るということが望ましいんです。ほかのセクターではあってもいいことがあってはならないという分野があるんです。

 でも、いくらそう言っても、分かってくれない人は分かってくれないんですよね。彼らは社会の変化というのは均一的に、すべてのセクターに及ぶものだと信じている。政治過程や経済活動に変化が起きたら、それに合わせてほかのシステムも全部変わらないといけないと信じている。教育に関しては、こういう考え方をされることはほんとうにはた迷惑なんですね。「社会がこれだけ変化しているのになんで教育は変わらないんだ」と。そういうタイプの恫喝を教育現場はずっと受け続けてきました。「硬直的にすぎるんじゃないか。保守的にすぎるんじゃないか。なぜ社会の変化と同調しないで、古めかしい教育をしているんだ」、と。でも、教育は本来「惰性が強いシステム」なんです。ゆっくりとしか変化しない。

 それを教えてくれたのは、諏訪哲二さんという方です。昔『オレ様化する子どもたち』という本を書かれた方です。高校の社会科の先生だったと伺いましたが、諏訪先生と僕が若い頃に対談したことがありました。そのときに諏訪先生が「教育は、惰性の強い仕組みですから」とおっしゃったことが非常に印象に残っています。そのあとに宇沢先生の本を読んで、「ああ、そういうことなんだ」と腑に落ちました。そうなんです。教育は惰性の強い仕組みなんです。もちろん変化しますが、ゆっくりとしか変化しない。急激な変化は受け付けない。でも、学校の現場には、文科省とか産業界とかあるいはメディアとかから「変われ、変われ」という圧力がずっとかかっている。