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「うちの大学では全教科英語でやります」というのは、「絶対に知的イノベーションができない学校を作ります」と宣言しているのに等しい。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その8)をご紹介する。
どおぞ。
でも、今、日本の教育行政は自分から進んで「母語では高等教育ができない状態」にしようとしている。大学も大学院も、英語で授業をしよう。それが世界標準にキャッチアップするためには必要だ、と。それは正しいんです。でも、それは教育後進国の発想です。「うちの大学では全教科英語でやります」というのは、「絶対に知的イノベーションができない学校を作ります」と宣言しているのに等しい。
いや、繰り返し言いますけれど、もちろん英語をしっかりやるのはいいことなんですよ。英語圏の高等教育機関に進学して、日本ではできない勉強ができるというのは知的可能性を広げるという意味では素晴らしいことです。でも、初等中等教育のレベルで、英語教育を優先して、日本語のアーカイブにアクセスする技術を教えないのは、知的イノベーションということに関して言えば、自殺行為です。
中学で古文や漢文をやるのは、別にそこに書いてあることを覚えるためではありません。そうではなくて、これらのテクストは、現代日本語と共に「母語のアーカイブ」を形作っているから、割と簡単に、それを使いこなせるようになるということを実感させるためなんです。古文は英語よりはるかに簡単ですよ。だって、同じ「生地」でできているんですから。
英語教育を日本語教育より優先する学校はたいてい「1年間海外留学必須」を看板にしています。これは大学経営者にしてみたら悪くない話なんです。1年間海外留学したら、その1年間は授業しなくていいわけですから。授業料は満額取って、中抜きして留学先に残りを払う。授業がないんですから、教員人件費は4分の1になる。学生がキャンパスにいないんですから、光熱費も4分の1、機材の損耗も4分の1カットできる。そのうち誰か賢いやつが「留学2年にしませんか?」と言い出す。賢いですよね。そうすれば人件費は50%カットできますし、教室数もキャンパスの面積も半分で済む。でも、そうやって考えると、海外に教育をアウトソースすると、4年間留学必須という学校が一番儲かることになる。もう大学が要らない。キャンパスも要らないし、教職員も要らない。「海外留学必須」を売りにしている大学の人たちは、それは大学がなくなるときに利益が最大化する仕組みだということに気がついていない。そのことの没論理性になぜ気がつかないでいられるのか。
もちろん学生たちを海外に送り出して見聞を広めてもらうというのは端的に「いいこと」なんですよ。でも、その「いいこと」に寄りかかれば寄りかかるほど、自分のところの教育機関として存在理由を掘り崩すことになるということを忘れてはいけない。教育のアウトソーシングはそういう「諸刃の刃」なんです。取り扱いが難しいものなんです。でも、そのことに気がついている大学人はきわめて少ない。
株式会社立大学っていうのがありました。今でもいくつかあります。若い人はたぶんご存じないと思うんですけど、2004年に小泉純一郎政権の頃にさまざまな規制緩和が行われましたが、その一環です。それまで学校法人の設立にはうるさい条件が課されていたんですけれど、「特区」を作って、そこではビジネスマンでも大学を作れるという新しいルールを制定した。
株式会社立大学を勢い込んで建学した人たちの言い分は「大学の教員たちは世間知らずで、ビジネスをまったく分かっていない。世間知らずの学者が経営しているからうまくゆかないのである。われわれ実務経験者が経営すれば、最先端の知識と技術を教えるので、志願者が殺到して、大学はがんがん儲かるようになる」というものでした。たしかに、学者にはビジネス経験のある人はまずいませんので、マーケティングの理屈もわからないし、財務諸表の読み方も知らない。それは本当です。でも、いざ株式会社立大学をつくってみたら、大繁盛するどころから、短期間のうちにほとんど軒並みつぶれました。
まあ、考えれば当たり前ですね。だって、ビジネスマンからすると、教育活動はそれ自体が「コスト」なんですから。教員の人件費も、教室や校舎のような教育のための空間の建設と維持費も、図書を買うのも、全部コストです。コストの最小化はビジネスの基本ですから、ビジネスマンの大学経営者は「できるだけ教育活動をしない」というやり方を選んだ。教育活動をしなければ、教員も要らないし、キャンパスも要らないし、図書館も要らない。学生たちだって別に勉強がしたいわけじゃない。できるだけ楽をして学士号が欲しいと思っている。だったら、「教育活動をするふりをして、授業料だけもらって、卒業させる」というのが大学にとっても学生にとっても「Win-Win」の関係じゃないか。そう考えた。
学生たちの学習努力は「貨幣」であり、卒業証書は「商品」であると考えた。そうであるなら、教育活動をしないで、したふりをして卒業させてくれる大学に学生たちは殺到するであろう。そうやって都心の貸しビルをキャンパスにして、ビデオを見せて授業に代え、大学に来なくてもレポートをメールで送るだけで単位を出したりしました。こうやって教育活動に要するコストは激減しました。ビジネス的には大成功のはずでした。でも、もちろんそんな学校には学生は来ませんでした。
たしかに授業に一度も出ないで、試験やレポートは友だちのを丸写しして、いかなる学習努力もせずに大学を出たということを「成功体験」として語る人はいます。でも、そんな人は声は大きいけれど、ほんの一握りであって、ほとんどの学生は教育を受けて、それまでの自分とは違うものになろうとして大学に来ます。彼らは「消費者」ではないのです。その点を株式会社立大学のビジネスマンたちは根本的に勘違いしていた。
消費者は買い物をする前と後で人間が変わりません。店舗の中で何時間過ごそうと、何年過ごそうと、入店する前と後では、買い物かごの中の商品が加算されただけで、消費者自身の人間は1ミリも変わらない。ショッピングカートに一つ商品を入れるごとに、言葉づかいが変わったり、表情が変わったり、感情表現が変わったり...ということは買い物においては絶対に起きません。消費者というのは、そこに配列してあるすべての商品について、入店する前からその価値と意味を熟知しており、棚にある商品から「何ごとかを学ぶ」ということはないのです。
株式会社立大学の失敗はこの点にあります。彼らは学生を「消費者」だとみなした。学生たちは「人間そのものはまったく変化せず、ただ知識や技能や免状や資格が加算された状態で卒業すること」をめざして大学に来るものだと信じ込んでいた。でも、それは違うんです。
学生たちはやはり無意識のうちに「成長する」ことを目指しています。大学に来ることで、それまでの自分とは違う自分になれるかも知れないと期待している。実際に、多くの学生は、「高校生のころまではそんな学問がこの世に存在するとは知らない学問領域」を専攻します。これはスーパーに買い物に来る消費者モデルではあり得ないことです。出るときには入る前とは別人になるということは買い物においてはあり得ません。