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内田樹さんの「常識にもう一度力を」 ☆ あさもりのりひこ No.1637

市民に道義的であることを求める制度と、市民が利己的で不道徳であることを前提にする制度とどちらが長期的に「住みよい社会」を創り出すかは、考えるまでもない。

 

 

2024年12月19日の内田樹さんの論考「常識にもう一度力を」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

兵庫県知事選について書こうと思ったけれど、日替わりで事件が続くので、この記事が出る頃には事態がどうなっているのか予測がつかない。とにかく「異常な選挙」だったことは確かである。

 前知事の再選が決まった直後は「オールドメディアがニューメディアに敗北した」という総括が支配的な論調だった。しかし、実際にはオールドメディアが知事選の異常さを「報道しなかったこと」で前知事にSNSの「追い風」が吹いて世論が一転したのだから、むしろ「オールドメディアの世論形成力は侮れない」ことを思い知らされたと言うべきだろう。

 今回の県知事選では、公選法の制度上の抜け穴を利用して自己利益を得る「ハッカー」が幅を利かせた。ハックすることをスマートでクレバーだと評価する人がいる。この人物を「賢い」と評した政党幹事長さえいた。

 公選法も他の制度と同じく「市民は遵法的であり、良識に従ってふるまう」ことを暗黙の前提にして設計されている。もちろん昔から政見放送や選挙公報で「非常識なこと」を言う候補者はいた。けれども、そういう常識をわきまえない人にも被選挙権を確保することも「民主主義のコスト」だと思って人々は黙って受け入れてきた。何らかの外形的な基準を設けて「非常識な人」を排除することはやろうと思えばできただろう。けれども、先人たちはそうしなかった。「そんなの非常識だ」と思ったからである。

 常識にできる最大限は「それは非常識だ」と困惑してみせることである。それ以上のことは常識にはできない。常識は決して原理主義にならないし、強権的にもならない。それが「常識の手柄」である。

 今「非常識な人間」が大手をふるってのさばっているのは、法律や制度に穴があるからではない(あらゆる法や制度には穴がある)。彼らに向かって「それは非常識だ」と告げる言葉に現実的な力がなくなったからである。

 繰り返すが、民主政下の社会制度の多くは「市民は原則として遵法的であり、良識を持って行動する」ことを前提に、つまり「性善説」に基づいて設計されている。だから、「その性、邪悪な人間」の目には抜け穴だらけに見える。だが、それを制度の欠陥だと思ってはならない。

 性悪説に基づいて制度を作り直すことはしようと思えばできる。事実、市民の一挙手一投足を監視するシステムを完成させた国もあるし、日本にもそれを真似たいと思っている政治家はいる。

 しかし、どれほど網羅的な監視システムを作っても、人々はその監視の目を逃れる方途を必ず見つけ出す。というのも、国民監視システムは国民に向かって絶えず「お前たちは潜在的には全員が泥棒であり、謀反人なのだ」と告げているからである。朝から晩まで耳元で「お前は悪人だ」と言われ続けていながら「私一人でも遵法的で良識ある市民として生きよう」と思う国民が出現することを私は信じない。

 性悪説に基づく制度は「悪人であることが市民のデフォルトである」という人間観を政府が公式見解として発信し宣布しているということである。

 それとは逆に、性善説に基づく制度は市民に向かって「あなたたちが遵法的で、良識ある人であることを私たちは願う」というメッセージを送る。制度そのものが市民に向かって「善良な人であってください」と懇請するのである。

 市民に道義的であることを求める制度と、市民が利己的で不道徳であることを前提にする制度とどちらが長期的に「住みよい社会」を創り出すかは、考えるまでもない。

「それは非常識だ」の一言が十分な抑制力を持つ社会を私たちはもう一度再建しなければならない。

 

(週刊金曜日11月27日)