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一方に「真の自分」に出会うことをめざして「内へ向かう」生き方があり、他方に自分が自分でしかないことを束縛だと感じて、今の自分とは違うものになろうと「外へ出てゆく」生き方がある。
2025年2月9日の内田樹さんの論考「『武道的思考』韓国語版序文」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
僕の哲学の師匠であるエマニュエル・レヴィナスはこのヨーロッパ的な「そうあらねばならないものになるための旅」をオデュッセウスの冒険の旅になぞらえたことがありました。
オデュッセウスはトロイ戦争の後、長い冒険の旅でさまざまな「他者」に遭遇します。でも、この「他者」たちはオデュッセウスによって経験され、征服され、所有されるためにのみ存在するのです。一つ目の巨人との戦いも、魔女キルケーとの恋も、セイレーンの歌も、どのような冒険もオデュッセウスのアイデンティティーを揺るがすことはありませんでした。すべての冒険は、彼が故郷イタケー島へ向かう旅程を挿話的に飾るだけなのです。
この「自分自身であり続けたい」という自我への執着をレヴィナスは西洋形而上学のある種の「症状」だとみなしました。そして、レヴィナスは、それとは違う「旅」のかたちがあるのではないかという問いからその哲学を深化させてゆきました。
レヴィナスはこう問いました。人が生きる目的は「真の自分」に出会うことだというのはほんとうだろうか? むしろ人は「自分が自分以外のものになれないこと」「自分が自分自身に釘付けにされていること」に苦しんでいるのではないか?
レヴィナスの本をはじめて読んだ時(僕が30歳を少し過ぎた頃でした)に、「アイデンティティーの探求とは違う旅」というこの哲学的アイディアに僕は強く心を惹かれました。僕はその時にすでに多田宏先生に就いて合気道の修行を始めて数年経っていましたので「メンターに導かれて、修行する」ということがどういうことかは感覚的にはわかっていました。
修行というのは、師の背中を追いながら、無限消失点としての目的(武道の場合なら「天下無敵」)をめざしてひたすら道を歩むことです。自我への執着を武道では「居着き」と言います。道を進もうとする人にとって、一か所に止まりたいという思いは修行の妨げになるだけです。
レヴィナス哲学もまた「自我への執着」は「他者」との出会いを妨げると論じていました。
レヴィナスの他者についての哲学と、多田先生の教えは僕には「同じこと」を言っているように感じられました。
「感じられた」だけで、二人の教えのどこが「同じ」であるのかを、その時は言葉にすることはできませんでした。レヴィナス哲学もほとんど理解できていなかったし、合気道もまだようやく薄目が開いたくらいのレベルでしたから、それは仕方がありません。
今年で、合気道の稽古を始めて50年になります。レヴィナスの書物を読み始めてからも45年ほど経ちました。これくらいの時間があると、武道的思考とレヴィナス哲学のどこに通じるものがあるのかが、ようやく少しずつ言葉にできるようになりました。
一方に「真の自分」に出会うことをめざして「内へ向かう」生き方があり、他方に自分が自分でしかないことを束縛だと感じて、今の自分とは違うものになろうと「外へ出てゆく」生き方がある。
あまり単純な二項対立図式に還元してしまうのは、ほんとうはあまりよくないことなのですけれども、これくらいシンプルな話から始めて、だんだん複雑なニュアンスを加えてゆく方が読者のみなさんに対しては親切かも知れないと思います。
この『武道的思考』という書物は、僕が合気道の修行とレヴィナス哲学の研究を通じて、「アジア的な人間観」とはいかなるものか手探りしている時期の書き物です。ですから、トピックはばらばらですし、そこで示される知見も断片的です。でも、それらの断片が集まってジグソーパズルの図ができあがるように、この本を書きながら、僕の中でしだいに「武道的思考」の輪郭ができあがって来たのは事実です。その生成的なプロセスを読者のみなさんもご一緒に経験して頂ければさいわいです。
最後になりましたが、朴東燮先生をはじめ『武道的思考』の韓国語訳の翻訳出版のためにご尽力くださってみなさんに感謝申し上げます。本書が日韓の文化の近さと遠さを際立たせるものであることを願っています。
2025年2月
内田樹