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「申楽免廃論」をめぐる鼎談から(後編) ☆ あさもりのりひこ No.650

僕は『申楽免廃論』を書いた人はかなり「できる人」じゃないかなと思うのですが、それは「一番大事なのは、原理じゃなく程度だ」という見識を持っているからです。ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。

 

 

2019年3月25日の内田樹さんの論考「「申楽免廃論」をめぐる鼎談から」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

僕は杖の稽古もやっているんですけれども、つい先日も、稽古で教えながら、「その動きは違う」「必然性がない」と門人たちにさかんにうるさく注意をしていた。そのときにふと「段取り芝居をするな」という言葉が口から出て来た。言ってから、自分で「なるほど、そうか」と腑に落ちた。「段取り芝居」というのは、要するに「次のせりふが何だか知っていてなされる」芝居のことです。そうするとどんなせりふにも動きにも、必然性がなくなってしまう。リアリティーがなくなる。だって、誰が次に何を言うかを事前に知っていて何かを言うということは、現実には起こらないことだからです。台本に書いてある通りにものごとが生起すると思っていて、演技すると、薄っぺらなものになる。何の感動も与えない。それはそんなことは現実では起こらないからです。

武道的な立ち会いの状況では、次に何が起きるか誰も知らない。でも、次に何が起きるかわからない時にでも、僕たちは何らかの選択をしなければならない。果たして、次に何が起きるかわからないときに、人間はどう動くのか。これは考えればそれほど難しい話じゃないんです。「自由度が最大になるように動く」に決まっているから。その後の可動域が最大化するように動く。その次の動作の選択肢が最大化するように動く。そうするに決まっているんです。自分が最も自由になるようなところに必ず行くはずなんです。わざわざ自分を狭いところに追い込み、動きの選択肢がより少なくなるようなところに行くわけがない。次にわが身に何が起こるかわかってないんですから。

現実の世界ではそうしているはずなんです。危機的状況に際会した人間は、「次の選択肢」が最大化するように動く。だから、未来の未知性に直面した時には、もっとも自由度の高いところを目指す動きにのみ必然性がある。そのような動きに、僕たちはリアリティーを感じ、強さを感じ、美しさを感じる。生き延びるために適切な戦略を選択している生き物を見たときに僕たちはそう感じるんです。生物として、そういう動きに惹きつけられるように構造化されている。それは生存戦略上当たり前のことなんです。

「段取り芝居」に説得力がないのは、未来の未知性という、僕たちにとってきわめて切実な現実を切り捨てているからです。次に何が起きるかもうわかっている人間は、単一の正解を目指して動く。それが「単一の正解」である以上、それは他の選択肢を想定していない動きになる。いわば、袋小路に自分から入り込んで行くような動きになる。それが美的な感動をもたらすということはあり得ません。

実際には、能舞台の所作でも、武道の型稽古でも、もちろん全部シナリオはできているわけです。手順、道順が決まっている。だから、次にどういうお囃子が入って、地謡が何を謡って、シテがどこでなにをするかは全部わかっている。でも、そこで先のことまで全部わかっているかのように動くと演劇的な感動がなくなってしまう。同じ能を何百回舞った場合でも、シテがある位置からある位置に行き、ある所作をするときには、生まれて初めてその道順を歩くかのように歩かなければならないし、その所作をその場で思いついてしているかのように演じなければならない。シテが演じている虚構の人物は、生まれて初めてその道を歩くわけですから。生まれて初めての経験を演じなければならない。「あ、いつものあれね」というふうな感じになってはいけない。定型をなぞりながら、決して「定型をなぞっている」ように見えないようにふるまわなければならない。その呼吸は能楽でも武道の型稽古でも変わらないんじゃないかと思います。

僕は『申楽免廃論』を書いた人はかなり「できる人」じゃないかなと思うのですが、それは「一番大事なのは、原理じゃなく程度だ」という見識を持っているからです。ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。

武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。この場合の「なすべきこと」というのは、僕の考えでは、自分が生き延びる可能性が最大化する所作ということです。それは、能舞台でも、型稽古でも変わらない。

能舞台の上で、シテは自分の体が最も美しく、力強く見える形をするわけですけれども、その形というのは、たぶん人間の自由度が最大化するものじゃないかと思うんです。次の行動の選択肢、次に選ぶことのできる動線が最大化する。つまり、それだけ自由だということですね。最も自由な形なんだけれど、自由度が最大化する形でなければならないという点では条件は厳密に決定されている。自由でありかつ決定されている。決定されているにもかかわらず自由である。それが武道的な達成だと思います。

 

『免廃論』を読んで、僕は自分のスキーの師匠である丸山貞治先生の言葉を思い出しました。以前丸山先生から「大事なことは、スキー板の上の正しい位置に立つことだ」と教わりました。僕はその時すぐに「先生、『正しい位置』ってどこですか?」と質問しました。すると、先生はにっこり笑って、「『正しい位置』にすぐ戻れる位置のことです」と言われた。僕はこれは至言だと思いました。

「正しい位置」というのは固定的にスキー板上にあるものじゃないんです。次の瞬間に雪面とスキー板と身体の関係がどう変わるかは誰にも予測できない。でも、どんな状況に遭遇しても、そのつどの最適解が「次の選択肢」のリストに入っていれば、それに応じることができる。次の瞬間の最適解が手持ちのリストに入っているような立ち位置のことを「正しい位置」であると先生は言われたわけです。深いなあ、これは、と思いました。これは能舞台の上であっても、あるいは武道的な立ち会いの場であっても、原理的には同じことだと思います。どこに立つべきか、それはあらかじめ決まっているわけじゃない。いつでも正しい位置に立つことができるという自分自身の未来についての解放性のことを「正しい」と呼ぶ。そのような立ち位置にある人を見ると、僕たちは「リアルだ」とか「強い」とか「美しい」とか「正しい」と感じる。

 

『免廃論』は「程度の問題」がたいせつだということを後半の三分の一くらいは書き続けている。でも、これはなかなか理解に難い話なんです。だから、「あとがき」を書いた人は勘違いして、「武道の稽古をやると体が固くなってよろしくない」というような原理主義的なことを書いていまっている。これは明らかに読み違いで、斉泰はそんなこと書いてないんです。武道の稽古をやってもいいけど、自分に合った程度でやりなさいと言っているだけなんです。「適当」なところまでやって、「適当」なところで止めておきなさい、と。

「適当」という日本語は両義的で、「正しい」という意味と「あまり正しくない」という二つの意味を含んでいます。「適当な答えを選べ」という時は「正しい」という意味で、「適当にやっておいて」という時は「それほど正しくなくてもいい」という意味です。「適当にやっておいて」というのは、まさにその時点では正しいかどうか確定しないけれど、結果的にはそれで正しかったことが分かるというようなふるまいをしろということですよね。「正しく」かつ「それほど正しくない」ということが一語で言い表せるのは、別に背理的なことじゃなくて、時間系列に配列すれば合理的なことなんです。未来は未知だから、ある時点では「先のことなので、それが正しいかどうかわからない」。でも、少し時間が経過すると事後的には「それで正しかったことがわかる」ということはまさに僕たちにとって日常茶飯事なわけです。それが「適当」という言葉の意味です。「適当」というのは、選択肢が複数あって、その選択肢のうちに最適解が含まれていたことが事後的にわかるようなものごとのあり方のことです。だから、「正しく」かつ「それほど正しくない」を一語で表現することができる。

 

 そういう人事の本質について書かれた本だなというふうに思うと、前田斉泰って、大人だなと思いました。以上です。